航海訓練所練習船の怪

われら海族 Home


上の2枚の写真は1992年頃に撮られたバルクキャリアーで「フィリピナス」という船名でした。私が勤務する会社の岸壁に入港してきました。
名前からわかるように、フィリピンの船です。古いことなのではっきりとしたことはわかりませんが、全長は190mぐらい。総トン数は25,000トン程度だったように思います。商船学校の練習船だと聞きました。フィリピンには私立・公立を含め100校以上の商船学校が存在するそうで、今となってはどこの所属であったかを知る術はありません。しかしながら、5番ハッチ後ろハウス前の上甲板にはバスケットコートのような広い運動スペースがあって、その下には船尾まで非常に多数のポールドが取り付けられて学生の居住区である事がわかった。とにかくハウスから船尾にかけては一目瞭然で、通常の貨物船でない。異様な感じを与えられる。

私は旧青雲丸と現在の日本丸で乗船実習させて頂いたが、フィリピナスを目にした時、「こんな船での実習もありだなぁ」と正直に思った。
帆船で実習するメリットも少なかれ有るだろう。決して否定はしない。しかし、その程度のもので訓練所の人間が言うほど大した意味はない。商船乗りになるには、あまりその効果は期待できないような気がする。これはあくまでも私の個人的見解ですが、帆船は諸外国同様海軍系に属する(ポーランドの大型帆船ダル・モジェジィは商船士官を育てている。商船系学生の為のものもないことはない。)方がその役割を十分に果たせるように思います。
いえいえ帆船で乗船実習してもなにも悪くはないですよ。でも、フィリピナスのようなスタイルで商船を実践教育に使用するやり方も推奨したい。卒業後即戦力につながるからです。水産学校の練習船は航海の他、漁法をも修得させるのに、何故商船学校の練習船は荷役を修得させないのか?誰か明確な答えがあれば教えて欲しい。
とはいえ、旧青雲丸はフィリッピンの商船大学で今も活躍しているらしく、ゆえにフィリピンの練習船が全てこのような商船を使用している訳ではないだろうが、日本の航海訓練所にも同様の練習船が1隻あっても良いのではないかと考えられる。現在、大型帆船2隻を商船学校の学生だけで動かすことは、員数的観点から無理があり、苦肉の策を講じているのは周知の事実である。しかも、練習船は訓練所の人のためにあるのではない。今となっては商船系訓練所が所有または運航する帆船は1隻でよいのではないだろうか。
訓練所に入所する方は学校のトップクラスというよりは帆船マニヤが多く、純粋な気持ちで船員の育成教育に携わる志を持っている人は少ない。元々教育者になろうと商船学校に入学するのではないのだから当然だ。(私が教えて頂いた練習船士官の中には、帆船乗りが最も優れた船乗りだと豪語して、勘違いしているナルシストもいた。) したがって、訓練所が所有する帆船が1隻になれば、自らが帆船に乗れる機会が少なくなる故に、帆船の削減に対し反駁するだけで、それらが唱える帆船教育の必要性(商船士官の為の)は、実際のところ単なるこじつけに過ぎず、容易に論破できる。これは船乗りや商船学校卒業生ならば大抵納得知り得るところではないだろうか。

例えば、食糧庁は官麦と賞される穀物を輸入しています。それらをフィリピナス同様の練習船に運ばせる。そして、その運航は学閥にとらわれず第一線で活躍されている商船士官を広く教官として招き乗船して頂いてはどうだろう。訓練所も変る時機だと思うのは私だけでしょうか。そういった事が事故の減少につながるような気がします。
練習帆船あまき G/W300t
日本丸・海王丸が建造された沿革と帆船の士官
元々、高等商船(旧神戸商船・旧東京商船)は進徳丸2518t(大正13年竣工)と大成丸2423t(明治37年竣工)の練習帆船を使用していた。それらは当時に西欧型横帆装置の帆船実習が法律で義務付けられていたからである。しかしながら、地方公立商船学校(鳥羽、富山、大島、弓削、広島、粟島、鹿児島、佐賀、島根、児島、函館)に西欧型の大型練習帆船はなく、各校は民間会社が所有する帆船に委託するか、200〜1000t程度の小型帆船を建造してこれに対応するしかなかった。[鳥羽商船では「あまき」(三檣バーク型300総トン補助機関付き:上図イメージ)を大正6年に竣工民間会社と提携し、横浜〜マーシャル群島ヤルート間(椰子の実・コプラ等を輸送)を航海させ実習とした。]
そのため今回の海王丸のような事故が相次ぎ、数々の悲惨な遭難を経験した。
大正 6年  大島商船練習船「山口丸」323t 南鳥島にて座礁・沈没
大正11年 粟島商船練習船「西別丸」182t 玄海灘で行方不明
大正14年 大島商船練習船「防長丸」270t 伊豆神津島にて座礁・沈没
大正14年 鳥羽商船練習船「あまき」300t 駿河湾にて座礁・沈没
昭和 2年  鹿児島商船「霧島丸」998t 犬吠崎沖にて行方不明
したがって、地方公立商船学校11校の出身者は悲願であった大型練習帆船の建造を政府及び国会に陳情する。結果、昭和5年に竣工されたのが日本丸・海王丸2238tである。そして、文部省航海練習所(後の航海訓練所)を設立させ、2隻をその所属とし地方公立商船学校11校の為の練習船とした。
当時、航海練習所は地方公立商船学校出身者が多くの士官を務め、また運営にも関わっていたが、戦後、運輸省通牒により全商船教育機関を縮小したことや、大成丸の機雷接触による沈没、進徳丸の帆船未復帰、などの諸事情により、日本丸・海王丸を大学2校、地方公立商船学校5校で使用することとなり、それに伴っていつのまにやら乗船する士官や運営から大学出身者以外の者を排除することにした。これらは偏見や差別ともとれ、未だ続いている。(航海訓練所HPで、その沿革は商船学校が逓信省管轄となった昭和17年頃を創めとして、日本丸、海王丸の所属を紹介し、それ以前について詳しく述べることを何故か避けている:2004年11月現在)
私が学生当時、教官が「何故高専出身者を採用しないか」と訓練所に質問したことがあったが、「実習生より年少になる士官は不都合である」というのが理由だったと聞いた。とは言え、C3rdがちょっとできる実習生にやり込められていたというのはよくある話で、年少でも能力不足よりはよっぽどよい。
私は帆船のようにちっこい船にあまり魅力を感じないが、帆船に魅せられた商船高専出身者が航海訓練所に入所するためにはわざわざ大学へ再進学しなければならい。(それこそが本来の不都合だ)大学出身の女性には門戸を開いた航海訓練所であるが、まだまだ保守・閉鎖的であることは否めない。
事故回避を悲願に建造された旧海王丸は現在、伏木富山港で余生を過ごしている。その目前で座礁した新海王丸。地方商船出身者が日本丸・海王丸の士官職から締め出された事と同様、全く皮肉な話である。

作者著書