戦後の傷痕がまだ癒されぬ昭和二〇年代、国民のほとんどはとにかく貧しかった。貧困に加えた物資不足が誰しもに覆い被さり、様々な愁絶を与え過ぎ去っていった。そしてその愁いの波は、雑多で混沌とした漁師町に暮らす秋水家にも重く圧し掛かかるのである。
それは、どこから見てもアヒルの親子に見えて、道行く人々の目を細めさせた。父親譲りの細面に高い鼻梁は兄弟の証か誰も例外がない。
母勝子の次ぎには小学六年生の良光、それに続いて三年生の唯夫がいる。その後ろには幼稚園年長組みの一志がいて、二歳下の俊克が鼻水を垂れて最後尾である。長男は母の数歩後ろを真っ直ぐに歩いていたが、色黒で顔に擦り傷跡のある次男は前を行く二人を追い掛けながらも、寄り道を繰り返す弟たちを気にかけていた。彼は十歩も進まぬうちに後ろを振り返り、苛立ちを隠せぬ様子で激を浴びせる。
「おまえら早ようせえや、置いて行かれんねんで。」
それは怒声とも激励ともとれず、半ば泣き声にも似ている。なんとかその列を乱さぬよう努力を重ねていた。唯夫が弟思いというより、そうしなければ列の中間に位置する自分が、逆に一人取り残されるような不安に苛まれていたからに他ならない。
勝子は乳飲み子の幾男を抱き、日差しを避けるのに集中して、いつもよりも早足だった。五男が生まれて、初じめての里帰りである。そのため週に一度は通うこの道も、勝子にとってはおおよそ一ヶ月ぶりのものになっていた。
「はい、ただいま。」
勝子が玄関を開けた。土間からたたきの通路が奥にまで伸びている。見なれた光景に勝子がほっと肩を撫で下ろした。先にたたきを駆け抜けて居間へと上がり込んだのは良光だった。玄関戸は誰をも拒むことなく開かれたままだが、残りが顔をだすにはまだ幾分か時間がかかった。
「また、男やわ。」
勝子は居間に入ると、困った笑顔で祖母の貞江に幾男を差し出した。
「赤いべべ(服)こ買うとったのにのう。」
貞江も残念そうだった。
「金もないのに子供ばーい(ばかり)産んでどないすんのな。」
勝子の父、古山駒吉は縁屋(縁側)に腰掛けて、なにか天を見上げながらに吐き捨てた。神経質そうな顔が一層際立って見える。梅雨入りの五月末だというのにそれは青く高い空だった。
「来るなりそなな(そんな)こと言わんでもええやな、のう。子は宝じゃ。男五人も産んで、戦前なら表彰もんやのになあ。」
貞江は幾男を抱きかかえてそれに語りかけた。
「おばあちゃん、お菓子もうてええんけ?」
良光は居間に入った瞬間から、お膳の上のそれに目をつけて離さなかった。
「もらい。」
勝子がそういいかけたとき、玄関先で叫び声がした。
「おばあちゃん、来た〜ん。」
唯夫が一志と俊克を両手につなぎ、玄関に仁王立ちして大声を張り上げていた。数秒おいて唯夫は再び叫んで返事を待つ。大粒の汗が全身から吹き出ていた。
「唯夫だれ(だろう)?何回も言わんでもわかっとらよ。勝子よ返事したらんかれ。」
祖母はあきれ顔で勝子に言った。三度目の声がした。
「放っとったらどないすんだあか?」
勝子は蔓延の笑顔を浮かべて、少し悪戯っ子のようだった。
「勝子、返事したれ。」
「唯夫―、ええさかい早よう上がっておいで。」
貞江の真顔に勝子は、障子の横から顔を出し三人を呼び寄せた。唯夫は鼻を鳴らせて喜んだ。一志の背を押して前に進ませると、俊克の手を握り跳ねるように狭いたたきを走る。三人の足音が家の中に大きく響いた。
「ほうら、ごんたくそ来よったどう。」
古山は振りかえりもせずに、タバコの煙を吐き出しながら呟いた。
「あないばーい(ばかり)言うだれ(言うの)、ほんまいけず(厭味な人)よ。そやさかい唯夫・やおじいちゃんおるか思てよう入ってけえへんのよ、のう。」
貞江は眉間にしわを寄せながら、勝子に同意を求めて言った。
「まあええやな。」
勝子はフフフと少し悲しそうに微笑んだ。
居間に入った三人の目に飛び込んだのは、長兄が菓子を食べる姿だった。俊克はそれに指を差しながら泣き出して母にかけより、唯夫と一志は口をあんぐりと開け同じ顔で母を見た。
「まだあんやなよ、もらい。」
勝子は煎餅を一つ手に取って小さく割ると、俊克の口に放り込んだ。それが合図か四人は争って菓子を奪い合い、あっと言う間に食い尽くしてしまった。それだけでは飽き足らず、俊克が水屋やそこいらの引き出しを開けて回る。四人は見つけては食べるを繰り返し、仕舞ってあった食べ物も全てがその胃袋に収まった。
「もうり(森)が来たらそこらじゅう掻き回して、わえ(無茶苦茶)にすっさかい(するから)好かんのよ。」
勝子は里帰りする度にこの言葉を古山から言われた。嫌味は承知の里帰りである。
もうり森とは勝子たちが居をかまえるところの集落の名であって苗字ではない。あきみず秋水の…とそれで呼称する場合もなかったわけではないが、地名を人名に代えて表現することが多い。モとリの間にウを付け加えて発音してしまうのは、この地の方言というよりは慣習に近かった。
古山にとってはこの森(もうり)の五人が全ての孫である。
勝子の妹二人も奉公ののち嫁に出ているし、弟の一人は徴兵にとられて戦死しているので、祖父母は歓迎して勝子の帰りを待っている。しかし、孫もそろって里帰りするにあたっては、それを古山は嫌った。
「おじいさん、わたしゃこの子らを引き伸ばしてでも早よ大きしたいんよ。ほんでお父さんと沖にやんねん。それがわたしの夢じゃ。」
勝子は目を潤ませていた。そして幾男を見ながらに続けた。
「ほない言うたってな、直に大きなれへんだろ? このごろは漁も少ないし…。 わたしゃ食べんでもこの子らには食べさしたいんよ。どないぞ(どうか)そない言わんといたって。もうちっとま間の辛抱やよってに。」
勝子の声は震えていた。貞江が勝子の肩を撫でるように叩いているのを見て、古山は何も言わずに家を出た。
勝子の嫁ぎ先は日銭稼ぎの漁師である。割合裕福な農家であった古山にとって、それは意に添わない縁談だった。
戦前大正後期までは、この町にもなません生鮮といって、魚の干物等を朝鮮まで運ぶ回漕業を行う者がいた。それらは地元漁師と密接な関係を築いて、小さな漁師町のわりには貧乏をする者は少なく、どちらかといえばこの世の春を謳歌するものが多かった。もうり森の秋水家も例外ではなく、利三郎の父、崎太郎は回漕業を営み三十トンばかりの船を持って隆盛を極めていた。しかし、船団を組んで渡航した朝鮮において、乗組員全員がコレラに感染、船は朝鮮で貨物ごと廃棄処分にされ、生きて日本に帰れたのも数人と悲惨な結末を迎えた。その損害は人命にも加え、莫大なものとなって後世に引き継がれた。それから二十年を経過した今も、その影響を色濃く残した漁師たちの生活は、貧困の陰から逃れることができずにいた。
利三郎がこの事件に遭遇したのは十五歳だった。そして父を失った秋水家の衰退はここから始まった。若い利三郎がこれを乗り切り、その父と同業を営むには、荷が重過ぎたのも当然だったろうが、最も大きな理由は戦乱の足音が近づく中、国の政策が変わった背景である。その後この町で回漕業の許可を取得できたものは誰一人としていない。残されたものは沿岸漁業のみに徹するしかなかった。またこの町での貧困を耐久化させた原因の一つには博打があった。大漁の日銭は持ち慣れぬ大金となって、漁師たちを賭場へと急そがせた。貧困に耐え得る活力を養い、そのう憂さ晴らしをするには、彼らにとって最も効果的だったと考えれば理解できる。
そんなこともあって利三郎の婚期は遅れていた。二人の姉はもう嫁いで久しいし、妹の見合いも先月に終わった。その時、利三郎は三十路の声を聞く歳になっていた。
「利―よ、おまや(おまえは)惚れた女(おなご)はおらんのけ?」
煮魚をつばむ利三郎の正面に座り、身を乗り出して長姉のシゲノが心配そうに訊いた。シゲノは利三郎と違って華奢(きゃしゃ)な丸顔だ。
「わしけ?」
利三郎は一瞬上目遣いにシゲノを見ただけでメシを頬張った。
「だあ(そやから)、おまえじゃな。わたしの前にだら(誰が)おんのよ。かわったこと言う子じゃ。」
半ばあきれた顔になった姉のシゲノは、おおげさにその小さな体をのけぞらせて見せた。
「佐田五のみっちゃんはどないよ? あの子やったら器量もええし優しいーわ。」
シゲノはお膳に両肘をつき、また身を乗り出した。
「あのかー(子は)から(体が)こまいのー(小さいなあ)。」
利三郎は申し訳なさそうに呟いた。いつもの険しい目つきは影を潜めていた。
「ほんなら長七の早智子さんはれ?」
合いの間もいれずに声を上げる。シゲノも目はきつい。きっと睨んだ。
「あら(あれは)年上の出戻りだろ?」
その気もなさそうに利三郎が言いかければ
「出戻りや言うたって、かみ(神戸の方)へ行っとったんじゃ、子もおれへんし、かまへんやな。」
シゲノは釘を刺す様に利三郎の口をふさいだ。
「あれわれ(あれはどうお?)、権兵衛さんとこの下の子、枝美子よ。あら(あれは)明るうてよう動くしええ子じゃ。」
自信ありげに何度も一人頷く長姉の姿があった。
「枝美子はこないだ学校出たばーいでないかえ、としゃ(歳が)だいぶ違わえ。」
利三郎は箸を茶碗の上にきれいに並べてシゲノの顔を見た。
「学校言うたって女学校じゃな、としゃ(歳は)もう数えの十八じゃ。わしゃ嫁に行ったん十五でないか。歳の差や言うたって、おまえととうお十もちゃえへんだろ。」
シゲノは立ち上がって利三郎の食器を忙しく片付けると、それを持って炊事場へと運んだ。
「権兵衛さんの弟は私の同級生やよってに言うたっさかい、べっちゃない。」
「もうええわえ。いらんことすなえ。」
利三郎は炊事場に向かって少し大きな声を出した。
「ええことあっかよ。いつまで一人でおんのな。女やこと元気で金勘定さえできたらそんで誰でもええんじゃ。」
まい掛けで手を拭いながらシゲノはまた利三郎の前に現れた。あれこれと適当な理由をつけ固辞する弟にシゲノは業を煮やして興奮していた。
「おまやまだしんはま(新浜)の勝子さんのこと思とんのだれ?」
「………。」
利三郎に返す言葉はなかった。
半年ほど前、古山家の前で偶然に勝子と出会った利三郎は、色白で澄み切った瞳の彼女に惚れてしまった。無理を承知でシゲノをやや強引に説得し、その配慮の結果見合いにまでは漕ぎつけた。近くの映画館でのそれはお互いに良い感触を得た。しかし、数日後には古山より、勝子の躾不充分と、体裁の良い理由で破談の申し出が来る。実際は古山の漁師嫌いが原因でしかなかった。
「百姓の子やこと漁師の嫁はつとまらんのじゃ。あの子はええとこの子、なんぼ言うたらわかんのだあか(わかるのだろうか)。」
シゲノの負け惜しみにも似た言葉が、利三郎の気持ちをより傷つけてしまった。利三郎はもう何も語ろうとはしなくなった。
「利―よ、もうい帰ぬさかいな。よう考えとけよ。」
「………。」
利三郎の返事はなかった。
出処(でしょ)を後にしたシゲノは、言葉に反して新浜の古山に向かった。シゲノが古山を訪れるのは、破談の知らせを受けたその日を初回として、これで五回目を数える。訪問は毎月初旬、大安吉日を選んで明神さんにお参りした後に繰り返された。
「すまんよう、秋水やけんど。勝子さんおんだあか?」
玄関の戸を一尺だけ開けると申し訳なさそうに声を上げた。
「シゲノさんけ? あかんてや。」
しばらくして奥から出てきたのは古山だった。そのしかめっ面の後ろには、うつむいた勝子の姿も見える。シゲノはそれを見て玄関から中へ入った。
「駒吉ぁんよ、どないだあか(どうでしょう)? まだあかんけ?」
シゲノは高床の上がり框に腰をおろして、はすかいに振り向くと口を開いた。
「なんべん来てもうても一緒やてや。」
古山はそう言うと剣道試合の様にシゲノとの間合いを決め、そこにあぐらをかいて鎮座した。その三歩後ろに勝子もきっちりと正座する。
「勝子さんよ、利三郎のう。あんたでないといらんのじゃ、言うてのう…。言う事きかんのよ。」
シゲノは古山の肩越しに勝子へ語り掛けた。
勝子は桜色に頬を紅潮させると、より一層俯(うつむ)いてしまった。
「勝子もまだ嫁には行きたない言うとるさかい…。」
それを打ち消すかの古山の言葉に、勝子はハッとして顔を持ち上げ首をかしげる。下唇を少し前に出して眉に力が入った様子に見えた。
勝子にとって利三郎は初めての見合い相手だった。この時二十二歳になっていた器量よしの勝子に、以前から縁談の話がなかったわけではない。しかしながら古山がそれを許さなかったのだ。
利三郎との見合い話も古山は最初から断り続けたが、シゲノの執拗な接触と間に入った世話人とのしがらみの中で、首を縦に振らざるを得なかったのである。
勝子と利三郎は見合いの破談後も何度か再会した、それは狭い町でのすれ違いでしかなかったし、会釈のみのふれあいだけだったが、勝子からは明らかに利三郎の好意が読み取れていた。元々本意によって縁談を断った訳ではない勝子にも、利三郎を異性として意識する気持ちに目覚めるのは自然である。
「駒吉ぁんよ、うちは漁師やよってに贅沢もできへんけんど、利三郎はよう働くしまっすぐな子やさかい、もういっぺん一回考えたってくへんだろか。」
シゲノは来るたびに同じ事を繰り返して言った。
「シゲノさんよ、腹割って言おかい。うちは百姓じゃのう。勝子に漁師ができっかえ? 苦労もした事ない子がそななことできっかえ! わかっとんだろう。」
古山は声を振り絞りながら、帰ってくれと言わんばかりだった。
「勝子さんはのう、近所まわり誰に聞いたって辛抱強うておおらかなええ子や言いよら、この子やったらできっさかえ、どないぞ来たっておくれ。な、勝子さんこのとうりじゃ。」
シゲノは合掌して畳に頭をつけた。
古山は腕を組んで目を瞑り沈黙を保っていたが、勝子はその後ろで両手を揃えて膝に置き、深くこうべ頭をたれている。勝子の目から畳に美しいものが落ちた。
庭先では夕暮れをを告げてこおろぎ蟋蟀が鳴き始めていた。
勝子たち六人が実家を後にして、もうり森に着いたのは昼前にさしかかっていた。
「遅なってしもうたよう。良光、米おいたら船のぼ上しに浜行けよ。おとうさんボチボチ帰って来る頃
だれ? 唯夫もトロ箱忘れたらあかんで。かあちゃんも後で行くさかいな。」
古山が帰りがけ良光を呼んで、二升ばかりの米をそっと持たせてくれた。
勝子は玄関を前にして焦った様子で子供達に目配りをした。
「勝子さん、どこ行っとったんな。」
勝子は玄関を開けるなり中から怒鳴られた。そしてそれと同時に、シゲノが待ち構えて奥から飛び出して来た。
「また、しんはま新浜へい帰んどったんだれ?」
「……。」
「もう、昼や来よんのにどないしよんのだあか。うちの船やこと、…とうの昔に揚げとんのに、ここの船ゃまだ轆轤(ろくろ)にかけたまま、海につかっとんでないか、誰も出てきてないよっておかしい思て見に来たんじゃ。」
「はい、あいすいません。」
シゲノのまく捲し上げる言葉に、勝子は血の気を失って返す言葉もなくたたず佇んでいた。
「良光、唯夫、早よ浜行かんかれ!」
シゲノは目くじらを立てて叫んだ。良光は米袋を土間に放り投げると、唯夫の腕をつかんで一目散に駆け出した。
「勝子さんも、わたしゃ幾男を見といたっさかえ行っておいで。」
勝子は申し訳なさそうに家に上がると、幾男を布団に寝かせてシゲノに一礼した。
「一志と俊克も一緒に行こか。」
二人の手を引いて勝子は逃げ出す様に家を後にした。
「かあちゃーん。」
唯夫が鼻水を袖で拭いながら帰って来る。
「どないしたん?」
「トロ箱忘れた。おばちゃん怖いさかい忘れた。」
「井戸の横にあるさかいにな。早よとっておいで、ここで待っとくよってに。」
「うん。」
唯夫は嬉しそうな顔になってトロ箱を抱え戻ってきた。四人は先ほど怒声を浴びたことも忘れたかのように笑顔で浜に走った。
四人が浜に降りると、利三郎や同乗の雇い漁師それに良光が、そろばんを海からろくろまで浜の傾斜にそって等間隔に並べているところだった。そろばんは太い木材をギリシャ文字のUに組んだ形をしている。
「お父さん、遅なってごめんよ。」
勝子は両手を口に添えて大声を張り上げた。一志と俊克も勝子の真似をして続けた。
「今じゃ、心配すな。」
利三郎はそろばんを持ち上げながら答えた。
「とうちゃん、これ。」
唯夫はトロ箱をかかえて利三郎に駆け寄った。
「唯夫よまだじゃ。そこらに置いとれ。それよりろくろに棒を突っ込んどいてくれっか。」
唯夫は頷くとまた浜を駆け上がり太い棒を手に取った。自分の身長とほぼ同じ長さのその棒は、あきらかに唯夫にとって重かった。轆轤(ろくろ)の頭部には四箇所に穴があって、それぞれに棒を入れなければならない。必死にあがいていた唯夫だったが見かねて勝子も手を貸した。
「よしゃあ、の上ぼらっそう。」
利三郎の声が浜に響いた。そこいらで魚の選別作業をしていた漁師たちやおなごし女連中が、手を止めて利三郎の船を上げる轆轤(ろくろ)の周りに集まってきた。
「おーい、巻いてくれっか。」
利三郎の掛け声で雇い漁師の和康がテキを入れ、皆で轆轤に取りつけられた横棒を押し始めた。車軸に負荷がかかって、それと船を繋ぐワイヤーがピーンと張った。
「ほれ唯夫、押せ押せ。はいはい。ほーらこい、えーんやこりゃ。」
「うーん。」
唯夫も勝子も力の限りに押した。
轆轤(ろくろ)の軸が周るとワイヤーを巻き込んでバシバシと悲鳴を上げる。海面からは船のスクリューが顔を出した。利三郎と良光はそれぞれとも艫の両舷で、一尺程張り出した木材の梁に肩を入れて舵取りをしている。そのうち徐々に船体が浜に巻き上げられていき、船の荷重がかかったそれぞれのそろばんは、順番に下半分ほどが砂にめりこんでいった。そろばんには昼間勝子たちがたっぷりとロウを塗ってある。そのおかげで船底のキールとそろばんが擦れて、ネチャネチャと耳障りな音をたてたが、船は浜を滑べる様に上っていった。
「おとうさん、今日はどないで?」
船をおか陸に上げ切って、勝子が利三郎に駆け寄った。
「おーい、皆すまんよう。」
利三郎は、船上しを手伝ってくれた仲間の漁師に礼を言うと、船上にあがって勝子に続けた。
「あかな、売れた魚言うたら、ちとばーい(少しばかり)じゃ。五番引いたけんどもあんまり入らんかっとら。なんでだあか、このごら魚が・ ・ぶんにおらんようなったのう。」
「そうけ…。」
勝子は残念そうに口を一文字に結んで頷いた。
「おえ、皆もうええど。帰(い)んでくれっか。」
利三郎は雇い漁師たちに告げた。それらが「おう」と手を上げて去って行く。勝子が深くおじぎをして見送った。
「唯夫よ、うちのトロ箱も持て来い。」
利三郎が唯夫からトロ箱を受け取り、生簀から小魚をタモで救い上げては移した。全部入れ終ってトロ箱は勝子に降ろされた。
「晩のおかずはようけあんやなよ。こられ見てみ。」
「ようけあるんやったら、雨山の松蔵さんとこにも持って行ったらんかよ。」
唯夫は近所のおじいさんの顔を頭に浮かべた
「あそこもつら〜いさかいな。そりゃ喜ばよ。」
勝子は息子の優しさに満足げだった。
船横について利三郎を見上げる勝子に、一志と俊克がまとわりついて離れない。二人にトロ箱の魚を見せて勝子が笑った。俊克が恐々と子蛸をつついた。
「勝子よ、明日ら富彦休む言よっさかい、良光と唯夫と乗せて行こか。」
一瞬だけ利三郎が船から身を乗り出して言った。勝子からは利三郎が嬉しそうな顔に見えた。
「明日言うたって、学校はれ…?」
勝子は先細りな感じで言葉に力がなかった。
「休ませい。」
勝子には利三郎の顔も見えず、ただ一言の返事だけが聞こえた。
「おとうさんよ、そななこと…。」
「じゃかましいわえ、漁師の子に勉強やこといらんじゃ。働くことを覚えさせい!。」
利三郎が再び船上から顔を出したときにはタモを持った手を振りかざして、先ほどとは打って変わり別人のような形相だった。
利三郎の船ではてんぐり底引き網漁を行う。それには船頭の利三郎の他に機関の操り方と網引き二名が必要であった。雇い漁師の富彦が休んでは仕事にならない。
「かあちゃん、わえ(僕)明日沖行くもん。」
唯夫が利三郎をじっと見上げて言った。母を守ろうとする小さな抵抗だった。利三郎は厳しい視線で唯夫を一睨みしたが、また穏やかな顔に戻った。
「勝子、唯夫と二人で皆にあたり日当持っていて来い。これとこれじゃ。」
そう言うと利三郎は、勝子に三人分の日当(あたり)と家のものを分けて渡した。
この辺りの漁師は沿岸で五番ほど網を引いたあと、舳先を神戸へ向ける。長田はカルモ島の駒ヶ林市場で荷卸しをするためだった。そして、その料金を受け取ると、また故郷へ船を走らせるというのが常だ。
日当はそこから重油代を差し引いて分配する。ただし船自体が二人分の日当を得る権利があるので、船主船頭となれば計三人前のあたりをもらえることになる。要するに四人乗り組みのてんぐり底引き船では、その漁獲高を始めから六で割って、一人前のあたり日当を算出するわけである。あたりは帰郷後各家に配ばられる。
「良光は二人連れて家へ帰(い)ね、うちのトロ箱かかえて行けよ。おらも、もうちとばーいしたら家い帰ぬさかいな。皆で風呂屋行こかえ、先にい帰んで用意しとってくれっか。」
利三郎が続けた。良光はそれを聞いて船上からピョンと浜に飛び降りた。
「はい。」
勝子は良光に雑魚の入ったトロ箱をもたせ、唯夫には参百円を渡して富彦の家に向かうように言った。そして自分は和夫と豊松の家に向かった。
「富彦のおっちゃーん、日当(あたり)持ってたで〜。」
唯夫が富彦の家を尋ねて声をあげた。
「おっ唯夫か、すまんよ。」
まだ着替えも済まさぬかっこうで富彦が出て来た。
唯夫はポケットに手を突っ込むと、綺麗に折られた札を取り出して富彦に渡した。
「よっしゃ、小遣いやろさ。」
富彦もまたポケットに手を突っ込んで、何やらじゃらじゃらと音をたてた。唯夫は鼻息が荒くなってそれを見つめていた。富彦はポケットから手を出して掌(てのひら)をあけると小銭を選んだ。
「今日はあたり少ないさかいな、十円でええか。」
富彦は頭を掻きながら両手を差し出す唯夫にそれを与えた。
「おっちゃん、ありがとう。」
唯夫が満面の笑みに変わった。唯夫はあたりを配るのが好きだった。こんな風に皆が多からずも小遣いをくれるからだ。十円でアイスキャンディが二本買えた。
「おっちゃん、明日休むんだあ? わえ明日らにいやんと沖行くねん。」
唯夫が自慢気に胸を張って言った。
「ほうか、唯夫がわしの代わりに行ってくれんのかえ? ほんならもう十円やらなあかんのう。」
富彦が言うと唯夫がまた鼻を鳴らし始めた。
「勝っちゃんよ、聞いたけ。」
「絹ちゃん、何をよ?」
勝子が豊松の家に行くと和夫もそこにいた。豊松も和康も潮焼けで、一杯引っ掛けたように肌が赤黒い。一石二鳥だと思った時、豊松の妻が声をかけた。
「何をじゃあっかれ、チフスじゃな。」
「チフス?」
勝子はキョトンとして絹世を見た。
「そうよ、戎ノ丁(えべんちょ)の子は死んどら(死んでしまったようだ)。まだ他にもかかっとる子がおんねんと(いるらしい)。」
「ほうけえ、恐ろしいのう。」
勝子にはまだ実感できず、相槌を打つだけの言葉だった。それよりもあたりのことが気になっていた。
「ほんなら、これの。これが和夫さんの分と豊松さんのんな。いつもありがとよ。」
勝子は用事を済ませてまた絹世を見たが、今度は絹世が上の空になっていた。あたりを勘定する豊松の手元が気になってしかたのない様子だった。
「ほら。」
豊松が一枚を抜いて、残りを絹世に渡した。札は多いが金額は少なかった。
「うあー、こんだけけ?」
絹世が豊松に対して口から思わずでた奇声に、勝子の方が恐縮して帰りを急ぎたくなった。
「ほ、ほんならな、また明日たのもよ。」
勝子は一言残してそこを去ろうとした。
「勝っちゃん、幼稚園の子じゃ言よるさかい気をつけいや。」
慌てる勝子に絹世が叫んだ。
「う〜ん。」
気のない返事とその表情は、勝子の脳裏に絹世の声が届いていない証拠だった。雇いのあたりで船頭のあたりは計算できる。家に入れたあたりがあまりにも少ない。勝子のその表情は帰途の道すがらも変わることがなかった。
「どないしよう。お父さんまた北森へ行くんやろか? お金ないのにほーん。」
北森とは博打場を指す。賭場通いは利三郎の日課となっていて、それは漁の多少に関係がない。とはいえこのところの不漁続きは、秋水家の台所事情を悪化させている。勝子の顔が曇るのも無理はなかった。
「唯夫えらいな、番してくれよんのけ。すまんけんど、もうちっとま間おってよ。」
勝子は井戸の側で、トロ箱を前に野良猫と睨(にら)めっこをしている唯夫の頭を優しく撫でて、家の中に入った。その番は良光があたり分けから帰った唯夫に命じたものだった。
「姉さん、すまなんだよう。」
勝子の問いかけにシゲノの返事はなかった。
「おばちゃん帰(い)んだで。」
奥から良光と俊克が出てきて言った。
「ああそうけ、あんたら早かったな。」
勝子は少しほっとした表情にかわっていた。
「おばちゃんな、冷めたいもんでも買えよ言うて二十円くれたで。」
良光は嬉しそうに手の平をパッと開いて見せた。真新しい五円玉が四枚光っていた。
「よかったな、よう手伝どたもんな。風呂の帰りにでも皆のん買(こ)うてったってよ。えーと、一志は?」
「上で寝よる。」
「…、ほうけ?(そうか)」
勝子はふと首をかしげたが、なにかを思い出して箪笥に急いだ。
「良光、幾男を見といてよ。直に戻ってくっさかい。」
勝子は良光に念を押すと慌てて玄関を飛び出した。手には大きな風呂敷包みを下げていた。
質屋は家からそう遠くではなかった。質屋通いは勝子の日課のようなものだった。出しては入れ、入れては出す、その繰り返しの果てついには流してしまう。余裕のある古山からの嫁入りで着物も人よりは余計にもたされたが今では喪服が残るばかりだった。
「お父さん、ごめんよ。代わろか?」
勝子が再び家に帰ると、利三郎が井戸端で雑魚をさばいているところだった。唯夫もまだそこにいた。
「かまへん、直に終わっさかえ。それより勝子よ、風呂行く用意できとっか。」
「ほんまやな、忘れとっとら。すぐ用意すっさかい。」
勝子がまた慌てて家の中へ飛び込んだ。
「とうちゃん、猫にアラやってもええけ?」
利三郎に脊を向け、未だに野良猫と対して座っている唯夫が尋ねた。
「あかん。」
「なんで?」
「なんでもじゃ。」
「アラも家でた煮くん?」
「こななこ小まいアラやこと食えへん、ほるんじゃ。」
「ほんならやろ。」
「あかん。」
「どないしてもけ?」
「おう!」
「やっぱりあかん言よら、あっち行け。ほらほら。」
唯夫は執拗に食い下がったが、あっさり諦めると今度は猫の説得にまわった。手を下から上へ大きく掻き揚げて立ち上がった。
「唯夫、鍋持って来い。」
利三郎が命じる。
「うん。」
唯夫が走りかけると勝子が家から鍋を持って出てきた。
「あとはやっとくさかい。」
勝子はそう言って、井戸の手押しポンプの腕を力一杯押し下げた。ポンプの口がゴボゴボと音をたてた次ぎの瞬間、水が勢いよく流れはじめる。利三郎は遠めに立ち、腰をかがめた。そして、そこに両手を差し出して擦り合わせた。少し水の勢いが鈍くなってきたのを見て、勝子はもう一度力をこめた。再び水が勢いを増して噴出し、利三郎の手に当たる。
「よっしゃ、風呂行こか。あれ一志われ?」
利三郎が腰を伸ばし、立ち上がって周りを見た。そこには風呂桶を持った良光と俊克、それに未だ猫の動向が気になる唯夫の姿しかなかった。
「風邪かしらん、ちょっと熱あるみたいやわ、今日は風呂休すまさ。」
勝子は心配そうに首をひねりながら言った。
「ほうけ((そうか))…。勝子、風呂の帰りに北森へ行くさかいぜに銭くれっか。」
利三郎は手を差し出して笑った。
「もっとんだろ…・・? しゃあないねえ。」
勝子は一言渋ったが、利三郎の腹巻にすっと手を差し入れた。
「もう一つじゃ。」
利三郎は腹巻を覗きこんで銭を確かめる。そして、しばらく考えた末に指を一本立てて催促した。
勝子は何も言わず懐に手を入れてがま口を取り出すと、そこからお札をつまみ出して利三郎に握らせた。利三郎は満足げにそれをまた腹巻に仕舞い込み、三人の子供を連れて歩き出した。唯夫がその一番後ろで振りかえった時、勝子が背中を丸めて魚の頭を猫に与えている姿が見えた。
賭場は漁師たちの潮気と煙草の煙で咽返りそうな空気だったが、怒声やら歓喜の声やらで活気には満ちていた。そこは博打に興じる者の他、土間の角に数人で台を囲み酒を酌み交わしながら世間話に華を咲かしている者もいて、さながら漁師たちの社交場と化していた。
「そこへ打ったら駒が腐んど。」
飛車の先が盤を突いた瞬間だった。利三郎は縁屋で将棋を打つ寿一の指を凝視しながら、えらそうに腕を組んで首を横に振った。
「ん?」
寿一はさっと腕を引き、怒りに歪んだ顔をゆっくりと上げた。
「なんや、利―ちゃんきゃ。…ちょこ(猪口才なことを)言うなえ。」
寿一の引きつった顔は、一気に意気消沈して白い歯がこぼれた。
「はははは。」
利三郎のその笑い声に浩二が敏感に反応した。シゲノの一人息子である浩二は、すでに一端の若漁師で賭場にも時々は顔を出していた。
「おっさんよう、こっちじゃ、こっち。」
浩二は群集の熱気にかき消されぬよう声を張り上げて何回も手招きしている。
利三郎は縁屋の下に草履を脱ぎ捨てると、そこから賭場へと上がりこみ、人を縫いながらに進んで浩二の横に腰を下ろした。
「おいちょかえ、勝っとんのか?」
北森での主流は花札でのコイコイ、株札でのおいちょにトントン、サイコロでのチンチロリン、将棋に碁ぐらいなもので丁半博打はやらない。その道の者への義理立ては、漁師たちもわきまえてはいる。ここでは好きもの同士が固まって、それぞれがかってにその盆を開くのである。
浩二はいつも通りに札で勝負していた。利三郎もおいちょは嫌いでなかった。
「おっさんも入っか。」
浩二は座布団を寄せて座り直した。
「胴(おや)は誰なえ、健介かい? よっしゃ次ぎから入れてくれっか。」
利三郎は気合の入った顔に変化していた。
花ゴザの上に白布をかけた盆には、札が散乱し健介が両手で捏(こ)ねていた。
札の模様は数字を完成度高く意匠されたものだった。それは西洋から伝来したカルタに、日本の花鳥風月を織り交ぜて創作された花札とは異なり、姿形が洗練され垢抜けている。身悶えするそのどす黒さは、古き時代を引きずって底のない力を感じさせずにはいない。男を博打の世界に引きずり込む魔力をかけられた物のようにさえ見えた。おいちょかぶには十一月の柳と十二月の桐を抜いてしばしば花札も使用されたが、漁師たちはしゃれた花札よりも粋な株札を好んだ。
「利―ちゃんよ、今日はようけ(たくさん)持って来たんかえ?」
健介が札を何度も重ねては切りながらに言った。
「あほ言え、おどれこそ借金増やしたろど!。いらんこと言わんと早よ張り札置かんけ。」
利三郎は健介の悪たれを鼻で笑うと一喝した。シャツを肩に捲り上げて気合をいれる。筋骨隆々の肩には“男一匹”の刺青。
急かされて健介が盆に左から右へと四枚の札を置いた。張り子の目が光る。
「けっ、腐った札ばーい撒(ま)きくさって(やがって)よ。」
利三郎は肩、二番、三番、引き、と四枚の札に目を配らせながら呟いた。
張り子がそぞれに駆け出した。利三郎は片膝を立て拳を口に据えて考えていたが、最後の最後、三番に金を置いた。掛け金が出揃ったのを見て、健介は自分の前に台札一枚を伏せて置いた。そして今度は張り札の上に、右から左へ次々と伏せた打ち札を重ねた。張り子たちはそれぞれに賭けた場所の打ち札を立てて見ては静かに戻している。
ナキ(七)の引きなし、サンタ(三)の止めなし
肩の組みはナキが入ってもう札を引けない。肩の浩二がゴクリとつばを呑み込んだ。二番にはサンタが来ている引かずには居られない。二番の五郎が引いた。札を見た五郎はしかめっつらを隠すのに必死の様子だ。三番の利三郎も引く。頷いて北叟笑んだ。その顔色をおや胴の健介は見逃していなかった。引きに賭けた者は遠慮した。
「五郎よ死んどんな。ハハハ。」
健介は自分の台札を開いて二枚目を引いた。オイチョ(八)だ。健介は肩、二番、引きと勝負を掛けて笑った。最後は利三郎との勝負である。
「利―ちゃん、カブ(九)だろ?」
そう言うと健介は三枚目の札を引いたがニゾウが出てブタ(0)になった。
「くそえ! 利―ちゃんなんなら?」
健介が三枚の札をポーンと前に落として嘆いた。
「わしかえ、インケツ(一)じゃ。」
「え?」
慌てて覗きこむ健介に、澄ました顔の利三郎が札を差し出した。健介が地団駄踏んで悔しがると張り子たちが爆笑した。
利三郎は端(はな)からついていた。この日オイチョで負けることもなかったわけではないが、ゴケ(五)やロッポウ(六)で何回も勝ったしアラシも数度出た。引き下(しも)が絶好調だったのか、胴(おや)に周ればそれはそれで負けが込んでも起死回生のシッピン(四一)、クッピン(九一)を繰り返して救われる。二時間もたたぬうちに利三郎の懐はかなり温かくなっていた。
「利―ちゃんよ今日はどないしたんなら?」
健介が羨ましそうに肩口から言葉をかけた。浩二も目を丸くしていた。
「ほんまよのう、今のうちにい帰んだ方が良さそうじゃ。」
利三郎は後ろ髪を引かれる様子もなく、すがすがしい表情で腰をあげた。
「ほんまにい帰ぬんかえ?」
五郎が不思議そうな顔をして言った。
「おうよ、たまにゃ晩飯前にい帰ななのう。はい、ごうしゅう、ごうしゅう。」
利三郎の意志は曲がらない様だった。
「どない言よんのえ!おっさんよ、今日はついとんねんさかいもっとやらんけ。」
浩二が引こうとする叔父の利三郎に叫んだ。
「明日ら良光と唯夫と連れて沖行くさかい早よい帰なよ。」
「けっ!関係あれへんだろ。」
笑って立ち上がった利三郎を下から見上げて浩二が吐き捨てた。
「あのおっさんあかんねん、負けとる・・うりにゃ頭に血上って金をつぎ込むのに、勝ってきたらちとばーい儲けて腰ゃ引けんのじゃ。あなな博打しよったら家も何も皆取られらさあ。」
利三郎が上機嫌で去ったあと浩二は減らず口を言って花札を盆に叩きつけた。
漁師の出船は早い、どの季節も朝焼けの薄明時に船を下ろす。午前三時前に床を出た勝子は竃(へっつい)に火をれてメシを炊く。もう小1時間もすれば利三郎が起き出してくる。その時までには、おひつ櫃にメシを移しておかねばうるさい。勝子は朝も明けぬうちから裸電球一つの下で奮闘していた。
「あの子らもう起こさんと・・・。」
勝子は釜からお櫃にメシを詰め込んで、その上に茶碗を裏返しに六つ載せた。こうしておけば船で揺られても茶碗は割れない。そしてお櫃の蓋をして箸箱を並べ風呂敷で包んだ。漬物は勝子自慢の糠床から引き抜いて、弁当箱いっぱいに入れてある。
「良光、唯夫、もう起きいよ。沖行かなあかんで。」
勝子は二人の枕元に座り軽く胸の布団を叩いて囁いた。傍で寝る利三郎を起こせば機嫌が悪くなる。良光と唯夫は目を擦りながらも素直に布団を出た。
「お父さん起きて来るまでに用意しとかなんだら、またこれやで。早よ顔洗ろうておいでよ。」
勝子は拳を握りしめて口元に近づけると、ハーっと息を吹きかけて見せた。唯夫が飛び上がって井戸へ走った。渋々良光もそれに続いた。ギッコンバッタンと井戸の手押しポンプの音が響きはじめる。
「にいやん、冷(ち)めたて気持ちええわ。」
唯夫は自分で手押しポンプの柄を数回下げては上げ、ポンプの口にすばやく移動して、そこに手を差し出している。ポンプを押している間は大量に流れ落ちる水も、唯夫が手を留めて周りこめば、直ぐに勢いはなくなって三秒もせぬ間に止まってしまう。唯夫はそれを何度も繰り返し、必死の思いで顔を洗っていた。
「ほうけ。」
良光は唯夫の話に感情のない言葉を浴びせると、そっぽを向いて歯を磨いていた。
「唯夫、押せ。」
良光に命ぜられて、唯夫は少し背の足らぬ柄を一生懸命に上下させた。水が噴出して良光はザブザブと顔を洗い、また口に含んでは吐き出した。
「にいやん、まだけ?」
唯夫が苦痛に耐えかねて根を上げた。
「まだじゃ。」
良光はまだ悠長に顔を洗っていた。唯夫の顔が引きつる。
「よっしゃ、もうええど。」
良光はそう言うと、手拭で顔を拭きながら家に入って行った。唯夫の洗面が再開された。
「良光、早よ服着―よ。唯夫われ?」
勝子が慌しく声をかけた。良光は無言で着替え始めた。
「二人ゃ起きとんな。勝子。」
利三郎も起き出して来た。利三郎は勝子から手拭を受け取って井戸へと向う。唯夫の悪戦苦闘が目に入った。
「おまやいつまで、どないしまいよんのな。横着して桶使かわんさかいじゃ。」
利三郎がポンプの柄を押しながら唯夫に一喝した。その声に唯夫は顔をこする手を止めて立ち上がった。下唇をぐっと噛んで目が潤んでいる。焦って転んだのか服が濡れていた。
「泣くほど沖行きたないんか? ほな行くな!」
利三郎は手を止めるて、大声を張り上げた。
「ちゃう。」
唯夫はじっと利三郎の目を見据えて、嗚咽する口から一言だけ吐き出した。一瞬の間を置いて利三郎は何も言わずに再びポンプを押し始める。唯夫はまたしゃがみこんで顔を洗った。
「唯夫、もうええだれ。こられ。」
利三郎は唯夫に手拭を差し出した。唯夫はさっと顔を拭って家に走った。
「どないしたんな、こけたんけ? 血出よんやなよ。」
勝子は唯夫の膝に唾を磨りこみながら問いかけたが、唯夫はよそを向いて黙り込んでいた。
「また怒らえんで、早よ服着替え。」
唯夫は勝子の勧めに慌てて土間から家の中に駆込んだ。
それから十分もせぬ間に三人の身支度が整って薄明かりのなか浜へと向かった。勝子の用意したお櫃は風呂敷に包まれて利三郎がしっかりと右手にぶらさげている。上弦の月がまだ艶っぽく西の空にあった。
浜ではすでに和康と豊松が用意万端整えていた。
「利―ちゃんよ、唯夫ら来る言よったさかいに、乗せて下ろしたろ思うてな。」
和康が言った。そろばんはもう浜に並べられているが、船は浜の途中で止めてあった。
「お、すまんな。」
利三郎が笑顔で答えた。そして続けた。
「良光、唯夫、船に上っとれ。」
良光は艫の方から舵に足をかけて船に上がる。唯夫は船側から和康に持ち上げてもらい、船べりにしがみついてもがきデッキに落ちた。利三郎と機関方の豊松も乗り込んだ。
「ええかえ?」
「おう。」
利三郎が返事して和康が轆轤(ろくろ)のテキを外し船側に走る。和康は横に押し出た梁を両手で押し引きして船を揺らせた。船はゆっくりとそろばんの上を動き浜を下り始める。和康が船に飛び乗った。船は海に近づくごとにその速度を増し、ドーン、バシャーンという音と共に船首の水押(みよし)が勢いよく波間を切り裂いて入水していった。
「うわー。」
ロープ止めに掴まって、その衝撃をこらえていた唯夫が歓声を上げた。船はプカプカと海面に漂う。和康は艫に繋がれたワイヤーを手際よく外した。
船の中央より少し後方には、磁気コンパスを置いて、縦横四尺四方の簡単なブリッヂが付けてある。そこをくぐって、前方に一段下がった船底が小さな機関場だ。豊松がエンジンの前に中腰で立って、ゴソゴソとポケットから指二本分ほどの火薬袋を取り出した。そしてエンジンの燃焼室上部にある半円球の玉の上にそれを置く。
焼玉エンジンは始動時に焼玉を赤熱し、点火プラグの代わりとして燃料に着火させれば、あとはエンジン内部の圧力で、燃焼室の爆発は持続する仕組みになっている。小型漁船においては、水に弱いディーゼルエンジンにありがちな、電気系統の欠点が解消される昭和三十年代後半まで、このように構造が簡単で取り扱い易い焼玉エンジンを多く使用した。ただし馬力が小さく振動が大きい欠点もあった。
「唯夫、どいとれよう。」
豊松は、機関場の中を上から興味津々で覗き込む唯夫に注意をうながし、マッチを擦って火薬袋に近づける。シュッと音がして焼玉の上で山吹色の炎が上がった。
「うわー。」
唯夫が仰け反って後ろへ尻餅をついた。彼が恐々(おそるおそる)再び機関場を覗いたとき、炎は少し小さくなって赤色に変化していた。
「よっしゃあ、エンジン回っそう。」
火薬が燃えきったのを確かめて、豊松は唯夫の顔を見た。唯夫は喜んで何度も首を縦に振った。豊松はエンジン側部に取り付けられたはずみ車の取っ手を力強く握ると、それを左右に振り始めた。豊松の肩から背中の筋肉が盛り上がり、次第にその振りは大きくなっていく。エンジンのシリンダー内部では、圧縮と混合気の噴射が繰り返されて、その始動が近づいているようだ。ドド、ドドと低音が響き始めた。
ドド、ドド、ドッ、ドッ、ドッ、ポン、ポン、ポン、、ポン、ポンポンポンポンポンポン・・・・。
豊松が慌てて取っ手から手を離した。はずみ車が力強く回転して、エンジンは強烈な個性のある高音を轟かせはじめている。唯夫が耳を塞いで舳先へ走った。
利三郎がブリッヂ下に屈(かが)みこんで豊松の顔を見ている。豊松はエンジンの微調整をして頷いた。
「ゴーヘイじゃ。豊松、やりまくれ。」
利三郎が叫ぶと、機関場の豊松が燃料バルブを全開にした。船は紺青の海面を滑り始め、朝焼けの真っ赤に染まった雲をめざした。十二馬力のエンジンはこの船を七ノットにまで走らせる。
利三郎はブリッヂの屋根に両肘をつき、舵柄(かじつか)を足でとって操船した。
「にいやん、にいやん、気持ちええで。」
唯夫はデッキに座り込み、船べりにもたれて、じっとしている良光に振り返って言った。風と甲高いエンジン音に、その声がかき消されて聞こえなかったのか、良光はただ唯夫の背中をじっと見ているだけで返事をしなかった。
唯夫は小さな体を舳先に据えて前を向き、さわやかな顔になって潮を感じている。すっかり機嫌は直っていた。
船は三十分ほど走って最初の魚場についた。
「ここらで一番目曳こかえ。和康、ええか?」
利三郎は船の速度を落として叫んだ。
和康が海へロープのついた四斗樽を投げ込む、高く上がる水しぶき。ロープが船の行き足に伴ってスルスルと出て行った。樽から二十けん間ほどに伸びたロープは、波間を漂いチョークで引いた線のようにくっきりと鮮やかに見えている。
「良光、そっちの端を持ってくれ。」
和康がロープに繋がれた網口の展開板を持ち上げていた。展開板は縦四尺横二尺ほどの板で、片側長辺部分全体に鉄の錘が取り付けられ、海底に沈むようになっている。それには正月の四角凧のように四隅に鎖で糸目をとってあって、曳いたときに水や砂の抵抗により、展開板が外向きに走り網をうまく開かせるよう、それぞれ鎖の長さをうまく調整してある。
「良光、行くど。」
和康はロープの末端が近づいた事を確認して良光に合図を送った。和康と良光が抱えた展開板は、二人の呼吸を合わせて海に放り込まれた。そして着水と同時に船上から足綱(あしづな)を引きずり込んでブクブクと沈んで行く。足綱は漁師たちがワラで縒(よ)ったものだ。直径三寸の太く強固なその縄は、水を含ませて浮かばないようにして錘(おもり)となる。十間(じゅっけん)の足綱の後に網が続く。利三郎が操船してゆっくりと船を進ませると、和夫と良光がそれらを捌いて伸ばしていった。網は右舷にとりつけられたローラーの上を越えてすーっと海中深くに消えて行くが、それは吸い込まれているような錯覚にも陥る。
「舵曲げんどー。」
利三郎は網を開かせるため、舵を小さく左に切って弧を描くように船を低速でもっていく。和康と良光は、未だ船上に山積された網を手繰り寄せては海上へ投げ入れている。舳先で陣取って眺めていた唯夫も、網入れが始まって和夫の後ろについた。見よう見まねで網を手繰る唯夫は、垂れた鼻水も拭かず一生懸命に頑張っている。
「おっ唯夫よ、手伝(てっと)てくれよんのきゃ。すまんよう。」
和康が微笑んで唯夫に礼を言った。唯夫も「うん」と頷く。
「こら、唯夫。じゃ、じゃまじゃえ。どいとらんかえ!」
利三郎が罵声を浴びせた。網入れは危険である。しかし利三郎はそういう言い方をしない。唯夫はまた舳先に飛び逃げ、小さくなって腰掛けると鼻水を腕に拭った。
「唯夫、危なーいさかいどいとれよ。」
和康が優しい言葉をかけてくれて唯夫はまたこくりと頷いた。
網は二人によって、瞬く間にデッキ上から海中へと消えて行った。その後は網の反対側に位置する足綱、網口展開板を再び放り込んで、船は白いロープを引きずりながら、最初に投げ入れた四斗樽めがけて静かに進んで行く。和康が鉤竿を持って左舷で構えている。豊松は機関場で利三郎の合図を待っている。樽をうまく拾うには、樽横に船をぴたりと静止させることが重要だ。エンジンも使用する。
「ゴースタンじゃー!」
利三郎は後進を発動させるため声を張り上げた。豊松ははずみ車の動きが納まるのを待って、ギアを入れ換えなければならない。利三郎の合図からは一瞬遅れてそれを行った。ガガ、ゴンと大きな音がしたあとに、船は行き足を緩めていき和康が鉤竿で樽についたロープを引っ掛けた。
「よっしゃ、よっしゃ。」
和康が満足そうに樽をデッキに引き上げた。船はまた前進に切りかえられている。一連の網入れ作業をうまく終えて、大人三人が一斉にタバコをとりだし火をつけた。
「にいやん、にいやん。」
唯夫が良光に飴玉を差し出し、良光がそれに手を伸ばした。唯夫は今日が嬉しくて昨日の晩からポケットに飴玉をしのばせていた。
「昨日な富彦のおっちゃんに小遣いもうたよってに、カリントウといっしょに高野で買うてん。一志と俊克の分もカンカンに入れてあんねん。」
唯夫はセロハンの包みをむいて青い大きな飴玉を頬張った。
「甘いのう。」
良光が海を見つめて呟いた。
「うん。」
唯夫が嬉しそうに目を細めた。日出の光映が波間に漂って水平線から船にまでとどいていた。
網を曳きはじめた船の速力は格段に落ちる。少し泳ぎの達者なものなら追いつけるほどのものだ。利三郎は他の漁船との見合いを確かめたり、ロープの張りに気を使ったりしながらの操業でそれなりの仕事をしているが、それ以外の四人にはのんびりとした時がしばらく与えられた。東の空には低い所に太陽が顔を出していた。それはまだ大きくて赤かった。
「ぼちぼち上げっか〜。」
利三郎にはめずらしくはんなりとした口調だった。利三郎が合図して豊松がスロットルをもどす。そしてまたはずみ車の動揺を確かめてクラッチのテキを外し、エンジンの動力伝達をスクリュウシャフトから離した。
「和康、ええどう。」
利三郎の声で、和康が網の巻き上げ用ウィンチレバーを入れる。今度はガツンという重い音がして、デッキの左舷側やや後方に備えられたウィンチが回転を始めた。
「利―ちゃん、やんどう。」
和康がウィンチの頭にクルクルっとロープを巻きつけて、それを手繰り寄せている。良光は上がってきたロープをじゃまにならないように、船首(おもて)の方でコイルしていた。
「良光、直に展開板上がってくんどう。手伝てくれよ。」
和康の言葉に、良光が船から見を乗り出して海中を覗く。光の屈折で歪んだ展開板が、ぼんやりと見えた。良光は慌てて和康の横についた。
「来たどう。」
和康と良光が展開板に手を伸ばした。「せーの」という掛け声と共に、二人に持ち上げられてデッキに落とされる。良光はまたそれを船首に引きずって行った。
和康は足綱まで上げてそれを固定する。そして次ぎに右舷側のロープを回して左舷側に持ってくると再び同じようにウィンチで巻き上げた。
「良光、上げっか?(上げようか)」
網自体は手で手繰り寄せて船上に揚げていくしか方法はない。和康は良光に声をかけて、それにとりかかった。二人は船べりから身を乗り出して網を掴み、そのまま体を起こしては反り返って引き寄せる。揚げた網はすばやく膝の下で踏んでいかなければならない。
「こら、唯夫。わがどないしょんのな(おまえは何をしている)ーてったわんかい!(手伝いなさい)」
和康と良光の様子を今度はおとなしく眺めていた唯夫に、利三郎の太く大きな声が飛んだ。唯夫は驚いてうろたえながら立ち上がった。
「えーんやこーら、そーれ。えーんやこーら、そーれ。」
三人の掛け声と共に網は上がる。疲労が蓄積されて揚げれば揚げるほどにその重みは増していく。見かねた豊松も機関場を離れてそれに加担した。良光も唯夫も汗を滴らせてうなっているが、艫では利三郎が涼しい顔をしてタバコを吹かしていた。船頭はめったなことで網を曳かない。
「入ってないのう。雑魚(ざこ)ばーい(ばかり)か。」
船べりに足をやって、咥えタバコで網を覗く利三郎が渋い顔で嘆いた。網は残りわずかになって海中に没しているが、魚影も少なくましてや大魚がもがく水しぶきもあがっていない。一番網は不漁だった。
網を揚げきって、和康と良光がそれぞれにそこから魚を取り出している。デッキに蛸やシャコ、うおぜなどの小魚が散乱しはじめた。唯夫はデッキを跳ね回ってそれをたもにすく掬ったり、あるいは忙しく手掴みしては生簀に放り込んだ。
「おまえら、・・・びちゃになっとんでないか。」
唯夫と良光の体を見ながら和康が微笑んだ。大人に比べて力のない二人は、必死になって網にくらいついたため、正面だけは海水をかぶったような有様だった。
言われて気付いた二人は、時間が止まったように改めて自分の服を眺めた。「あーあ。」唯夫は溜息をついて利三郎の顔色を伺った。
「べっちゃない、直に日や照ってくる。」
鼻で笑いながら利三郎が慰めた。そして続けた。
「おーえ、二番目の段取りせえよ。」
一番揚げを終えた息つく暇もなく、皆が次ぎの作業に取り掛かる。太陽の高度が上り、その真下の細波(さざなみ)が銀の砂をこぼ零したように輝やいていた。
二番網を入れて朝飯の用意にとりかかる。和康はデッキのサブタを空けると、そこから柄が腐りかけた出刃と、中央が薄く擦り減った磨ぎ石をとりだしてデッキに置いた。利三郎が良光に七輪(かんてき)と風呂敷包みを手渡す。
「うわー!」
船べりに腹をあずけ、バケツに海水を汲む唯夫が、逆さになって喚(わめ)いている。和康が慌ててその足を掴んだ。そしてそれを唯夫の襟首と胴に持ち替えて引きずりあげる。唯夫は恐怖の面持ちで硬直して宙に浮いていたが、しっかりと握られたバケツには、たんまりと水が入っていた。
「あほよ、こないようけ(たくさん)汲まんでええんじゃ。」
和康にたしな嗜められて唯夫の表情が笑顔にもどった。和康はバケツの水につけては出刃を研いでいる。艫では良光が七輪に練炭の火を熾(おこ)すため、新聞紙と薪を詰め込んで燃やし始めた。
「利―ちゃんよう、何食(や)んで?」
和康が出刃の研ぎ具合を指先で確かめながらに訊いた。唯夫はすでに生簀の脇でタモを構えて待っている。
「うおぜを煮(た)けや。それからキス揚がっとっただれ、刺身にしたってくれっか。」
利三郎の言葉で唯夫が生簀の中を覗き込んだ。銀色に光るものが、縦横無尽にすばしっこく動いている。唯夫は心を決めてタモをいれたが、掻き回しても掻き回しても魚は入らない。体を右にかわしても左にかわしても、それは功を奏さず同じだった。
「唯夫!」
業を煮やした利三郎が叫んだ。唯夫が振り返える。次の瞬間、彼はついに生簀の中へ尻から落ちた。ボッシャーン、生簀から水しぶきが上がった。和夫が目を被い、良光は「アホや。」と一言冷たく吐き捨てた。
「プハーッ。はまってもうた。」
唯夫が生簀から恥ずかしそうに顔を出した。その後ろには利三郎が仁王立ちしている。
「おまや、そない泳ぎたいんか? じゃらけくさって。」
言うが早いか利三郎はそこから唯夫を持ち上げて、有無も言わさず放り投げた。唯夫は悲鳴と共に宙を舞い頭から海中に消えた。唯夫は泳ぎが上手い、直ぐに浮きあって船に並泳し始めた。
「とうちゃん、ごめん。」
「や、やかましい。おまや、どんだけどんくさいんな。泳いで家へ帰(い)にくされ!」
利三郎は唯夫に目もくれずタモを取りなおして、うおぜとキスを次々に掬(すく)っては和夫に渡した。
「とうちゃん、次ぎはちゃんとするよってに…。とうちゃん。」
唯夫は泳ぎながら船側にすがって必死に叫んでいた。
「利―ちゃん、あない言よんでないか上げたれよ。」
利三郎は返事をしない。
和夫が魚をさばく手を止めて、唯夫を船内に引きずり上げた。夏は近いが朝方は十分に水温は上がっていない。唯夫はぶるぶると震えて呆然と立ちすく竦んでいた。
「服脱げ。」
利三郎はそう言うと、ハッチからうす汚れた潮くさい毛布を取り出して唯夫に渡した。唯夫は急いで素っ裸になり毛布を体に巻きつける。そして和康ににっこりと笑った。和康が困った顔で首をひねっていた。艫からは醤油と砂糖でた煮かれた魚の甘辛い匂いが漂っている。
「唯夫、服を絞って竿にかけてからメシ食いに来い。」
利三郎が無情な言葉をはいて、唯夫はそれに従った。下唇を突き出して一生懸命に服を絞る唯夫がいじらしかったのか、和夫がそれを手伝って竿にかけてくれた。それは三枚の不恰好な大漁旗となり風になびいて誇らしげだった。
「にいやん、おいしいのう。」
獲れたての煮魚は身を取りにくかったが、ふっくらとして臭味もなく、不味い筈がない。刺身はどんぶりに盛られて色気もないが、身は甘く歯ごたえも格別だ。唯夫も良光も喜んでメシを頬張っていた。利三郎もその二人に満足げだった。
「唯夫よ、美味いんはええけんどのう、おっさんとこからおまえの唐辛子が丸見えじゃ。どないかしてくれへんかのう。メシャ喉通れへな。はははは」
豊松が揶揄して大声で笑うと、皆も吹出した。唯夫はその笑いの種を慌てて毛布で隠したが、その顔は茹蛸のように真っ赤になっていた。
利三郎を送りだして勝子も朝食の支度をする。今日は一志と俊克のものだけを用意すれば、それで事足りる。いつもに比べては手間もかからずに済んだ。しかし、洗濯物はそうもいかない。七人分のそれは一日の休みも容赦せず勝子に迫ってくる。勝子はいつものように洗濯物を両手にいっぱいに抱えて井戸へとことこと歩き始めた。朝靄もまだ晴れぬ中にその行脚は三度を数えた。
「ほんまに、よう、汚してくれとら。」
盥(たらい)の横に汚れ物の山を置き、それを一枚摘んで笑った。今日も二時間はかかるだろうと思った。
勝子は井戸から水をバケツに汲み上げては大盥に移した。着物にたすき襷をかけて洗濯板を備えるとそこに鎮座してさっそく大仕事にとりかかる。幾男のオネショや俊克の味噌汁をこぼした染みはすぐにきれいになったが、一志が赤土に転んだ痕や、どこでつけたか唯夫の黒い油は擦っても擦ってもおちなかった。
「かわいそうにのう、ここ破れてきよら(きている)。」
継ぎは接ぎだらけで、みすぼらしいズボンの膝がまたほころ綻んでいる。勝子はしばらくそれをじっと眺めていた。
「勝っちゃん、早いな。」
三軒となりの織も洗濯物を抱えてやって来た。勝子のそれより随分と少ない。
「織さんよ、洗濯もん少なてええなー。」
勝子の言葉には実感がこもって、やけに語尾が長かった。
「そななことないで。子や多て今は苦労もあっけんど(あるけれど)、そんだけ後で幸せもようけ(たくさん)返って来らよ。」
織は明るい声を出して励ました。
「そうけ。」
勝子の相槌はいかにも訝(いぶか)しげで頼りなかった。
「うちやこと見てみ、二人じゃな。上は女の子だれ、嫁に取られて終わりじゃな。下も男の子や言うたって・・あた恐ろしい、漁師やできんだあか(なんてできるだろうか)? ハハハ。 勝っちゃんとこは男の子五人、末楽しみでしゃあないだれ(しょうがないでしょう)。」
織が勝子のわき傍に立って一気にまくしたてる。織は背が低い、勝子が井戸のポンプを押してやっていた。勝子はなにか嬉しくなっていた。
「そうよのう。ほんまにそれだけが楽しみで生きとるようなもんよ。引き伸ばして大きしたいぐらいじゃ。」
冗談もとれぬ勝子の口癖がまた付け加えられた。
「皆、おはようさん。うわー、勝ちゃんようけようけ毎日たいがいえらいな。」
向かいの佐代も井戸に寄る。洗濯ではないようだ。
「そうだれ、佐代ちゃん、ちょっとやろけ(あげようか)?」
勝子は泡のついた洗濯物を引き上げて明るく差し出したが、佐代は目を丸くして顔を引きつらせると慌てて手を振って遠慮した。期待通りだったのか勝子は満足そうに笑った。
「勝ちゃんとこは皆ゴンタ(やんちゃ)やもんな。洗濯もんも溜まらよのう。」
織が盥(たらい)の中の手を止めて顔を上げた。
「ほんまじゃな。女の子一人おったら大分(だいぶ)ちゃうのにのう。」
同情したのか佐代が顔を曇らせている。佐代の表情は豊かだ。
「そうよ、今度は女の子だあか(だろうか)? 今度こそ女だろ思て産むねんけんどのう。男ばーい出てくんのじゃな。」
「べっちゃないわ(大丈夫)。勝ちゃんだったらもう三人ほど産めんだろ、ええお尻しとんもんな。ほんだらそのうち女の子も出来らよ。」
勝子がいかにも残念そうに言うので織が激を飛ばす。
「そうだあか・・・? 何言よんのよ、織さん。恥ずかしいよ。」
勝子は言いかけたが慌てて否定した。うつむ俯いた勝子の頬がほのかに紅味をおびて、織と佐代が高笑いを始めた。
朝の女連中(おなごし)は多忙で終日(ひねもす)仕事は山のようにある。ぐずぐずしていると、時間はすぐに足りなくなる。佐代はちょいの間の談笑を終えると水を汲んで立ち去った。織の洗濯物は少ない、半時間も経たずにそれを済ませて帰った。勝子は一人になってもその手を休ませことなく黙々と勤しんでいる。額には汗を滲ませていたが苦痛の色はない、むしろ薄く笑みをたた湛えている。
「おはようさん。上がらしてもらおよ。」
静寂を破る声がして勝子が頭を擡(もた)げた。シゲノとシマノの義姉の姿が、その瞳に映って通り過ぎた。二人が勝手口から家に消える。義姉たちは、毎日のように訪問を欠かさないが、今日はやけに早い。突然のことで勝子の時間は止まってしまった。
「勝子さん、ちょっとおいなはれ。」
ほどなくして勝手口から、利三郎と同じくらい面長のシマノが手招きをする。「はい。」勝子が我に返って駆け出した。手にはいっぱいの泡。
「勝子さん、仏さんのお膳われ?」
シマノはきつい口調だった。勝子は焦ってたたきから家に上がり、仏壇に急ぐ。そこにはシゲノがちょこんと正座して手を合わせていた。その脇には申し訳なさそうに仏壇のお膳が取り出されている。
「すいません。」
勝子がシゲノに頭を下げて、お膳をゆっくりと引きかけた。
「謝るとこが違う。私にやこと謝らんでええの。皆がご飯を食べる前に、先に仏さんと神さんにご飯を奉(まつ)んの。なんぼ言うたらわかのだあか?」
シゲノは目を閉じて合掌したまま、微動だにせず勝子を叱責する。勝子は咽喉もとまで出かかった言葉を飲み込み、「はい」とだけ言って炊事場に向かった。
「子供われ? まだ起きへんのけ。」
シマノが不満げに聞く。
「はい、良光と唯夫はお父さんと沖へ行きましてん。」
勝子が仏の小さな茶碗にご飯やふ麩を盛り付けながら答えた。
「そうけ、えづい(えらい)子らじゃな。」
シマノは表情を一気に高揚させて誉めた。勝子も安堵の色を見せてシマノに愛想笑った。
「一志と俊克われ? 子供のくせにまだ寝よんのけ。」
シゲノが畳の上から土間に立つ勝子を見下ろしていた。また勝子に緊張が走った。
「はい、今起こしますよってに。」
勝子は二人にお茶を出すと、腰をかが屈めながらお膳を運んで行った。仏壇の奥にそれを備えて、線香にマッチを擦る。鐘を一つ鳴らして「南無大師遍照金剛」と心に念仏した。
「あー忙し。」
勝子が階段を駆け上がりながら一言こぼした。
「一志、俊克、起きーよ。朝やで。」
優しくさと諭されて俊克は目を覚ましたが、一志はなにか重苦しい息遣いで、顔も紅潮してぐったりとしていた。それに気付いた勝子が、一志の額に手を翳(かざ)す。
「うわー、一志よ熱下がってないやな。ちょっと待っとりよ。」
驚嘆の悲鳴を上げて、勝子の顔が曇った。幾男がキョトンとした顔で目を開けた。勝子は俊克に服を着せ幾男を抱えて下に降りて行く。
「一志ね、具合悪なっとるんです。」
勝子は義姉の二人に告げた。シゲノが愛しそうに両手を差し出して幾男を引き寄せた。
「乳はもうやったんけ?」
シマノが幾男の顔を覗きこんでホッぺに指を当てている。幾男は手をジタバタさせて機嫌がよい。シマノには子供がいない。目を細めて幾男をじっと見ていた。
「まだですねん。」
「まだ言うて、早よやらんかれ。ほんまに。」
勝子の悠長な言いぐさがシゲノの逆鱗に触れて釘を刺された。
「まだ今起きたばっかりやさかい。先に俊克の顔洗わせて…・。」
勝子は一志の容態が気なって言葉を続けようとしたが、それに被せてシゲノが遮(さえぎ)る。
「顔やこと洗わんでも死ねへんの、早よ乳やんなはれ。」
勝子の言い訳には誰も耳をかさない。勝子はまた「はい」と言うしか選択の余地はなかった。しかたなく勝子はシゲノから幾男を受け取って腕に抱くと、襟元を緩めて乳房をその口に含ませた。勝子が温かく幾男の背中を撫でる。
「見てみい、よう飲んみょんでないかれ(飲んでいるじゃないか)。」
勝ち誇った表情のシゲノがいた。
「ほんまに…。」
勝子は優しい母の顔を幾男に注いで頷いた。
「ほんなら帰(い)のよ。シマノ行こか…。」
義姉の二人が重い腰を上げた。
「勝子さんよ、あそこの障子、破れとんで。どうせ唯夫か一志だれ。張っときよ。ほな帰ぬさかい。」
シマノは最後にもまた、小言を忘れなかった。
「はい、しときます…。どうも愛想なしですいません。」
勝子は幾男を抱えたまま二人にお辞儀をして挨拶を済ませた。
「ああそうじゃ、良光と唯夫沖へ行ったんだれ?えらいな。どられ、小遣いやっとこさ。」
シゲノとシマノが財布から二十円ずつを取り出して、上がり框の隅に置いて帰った。勝子はまたその後ろ姿に深く頭を下げた。
俊克が一人井戸の側で勝子の到着を待ちわびている。勝子は土間に幾男を寝かして走った。
「ごめんな、俊克。ほら顔洗い。」
勝子は井戸のポンプを押して桶に水を入れてやる。小さな手がそこから水を掬(すく)い上げては顔に翳(かざ)す。勝子は俊克の前に跪(ひざまず)き、顔を傾けてその様子を愛しく見つめていた。
「俊克、ここらでちっとま間遊んどきよ。家に上がってもええけんど、幾男を踏んだらあかんで。フフフ」
勝子は俊克の顔を手拭で拭いてやると、頭にそっと手を触れた。そして、桶に水を蓄えて一志のもとへと急いだ。
一志の熱は一週間が過ぎても下がらなかった。というよりはさらに悪化したようだった。ウンウンと魘(うな)され昼夜を問わず頻繁に愚図っている。とても苦しそうだった。胸腹部には淡紅色の発疹も現れてその状態が尋常でないことを知らせている。
「お父さん、一志を平賀先生とこへ連れて行ってええだろか?」
いつもの朝、利三郎の起き抜けに勝子が訊ねた。一志の看病に加えて幾男の夜泣きで勝子はほとんど寝ていない、目が真っ赤だった。
「風邪とちゃうんか? 寝とったら治んだろ。」
利三郎は無頓着な表情で着替えをしている。
「いーや、一志は風邪もよう引くけんど、一日寝たら治る子やもん。それに…。」
勝子はそれ以上口にするのがなにか怖くなって押し黙ってしまった。それは一志の身に取り付いた悪魔の姿を察知したようだった。
「それに…? なんじゃ! 医者に払う銭やことない。」
利三郎は嫌悪感を顕わに言葉を吐き捨てたが、勝子は唇を結んで返事をしなかった。それが気にくわなかったのか、利三郎は小言を付け足して後、仏頂面にお櫃をぶらさげてそそくさと家を出た。
勝子は家事も洗濯も何一つ手につかず、ただ憔悴して一志のそばにぽつんと座った。一志の手をしっかりと握り、時々顔を覗き込んでは額をさする。その苦しそうな面持ちが勝子の首を何度も捻らせた。傍らで眠る俊克と幾男の寝息だけがすやすやと勝子の心を和ませたが、その心配は止むことなく夜明けまで続いた。
「今日はなんな?」
良光と唯夫を学校に送り出してのち、勝子は意を決し病院に駆け込んだ。それに平賀が冷たく訊く。角張った顔に大きな二重、口はへの字に結んで、やけに力の入った顔立ちは迫力があった。
「はい、この子の熱が下がらんもんやさかい。」
勝子は毛布にくる包んでぐったりした一志を抱きしめていた。
「いつからじゃ?」
平賀はやっと椅子を回転させて勝子に見合った。
「一週間ほど前からです。」
「血便はまだ出てないか?」
「はい。」
「そこへ寝さして服上げてみ。」
勝子はベッドに一志を下ろすと、その腰をあげて下着を胸まで捲くりあげた。平賀の眉間に深い皺がはいって顔が曇る。
「なんで今まで連れて来なんだ? バラ疹出とんでないか。」
「はい、風邪やと思て…、お金もないし…。」
勝子は耳慣れぬ言葉で病状が深刻なことに気付いた。
「いーや、死ぬど。チフスじゃ。」
勝子の言葉を無視して平賀がきつく言った。思いもよらず、勝子は生唾を飲み込んで驚嘆した。
平賀は野戦病院の軍医だったと言うのが、もっぱら地元での噂である。そこでどれほど悲惨な修羅場をくぐり抜け、治療を施して来たのか、その表情はいつも極めて硬く厳しかった。また、必要以上の言葉も発せず、無愛想この上ない身振る舞いは、元軍医らしく威厳があって、十分過ぎるほどに子供たちの恐怖心を煽ったが、医者としての資質は高く、住民からの信頼も厚かった。
「ヴィダール反応の血清検査をしてもええけんど、あななもんは頼りない。ここらでもう十人もチフスが出とっさかい症状からしてまず間違いないやろ。おまえも噂は聞いとんだろ。」
平賀はまた椅子に深く腰を下ろし、神妙な顔つきになっている。
「はい。」
勝子は絹代が先日話していた事を思い出した。
「養生ささんと(させないと)危ない。わしが言うぐらいやさかい、よっぽど悪いど。」
平賀は机に向かった。
「……。」
平賀の謙遜に似た言葉も慰めにはならない、勝子は返事に困った。
「今日はサルファ剤と解熱剤を渡しとくけんど。あんまり効けへんど。」
カルテを書きこむペンの音だけが、カタカタと勝子の脳裏に響いている。
「先生、ほんなら一志どないなるんだあか?」
勝子は震えを押さえながら必死に訊いた。
「効いたら治る。」
「先生、助けたって。先生。」
勝子はうろたえて平賀の腕に縋り付いた。
「わしゃ神さんとちゃう、医者じゃ。そななもんわかれへん。」
勝子に振り向いて平賀の厳しい口調は続いた。
「空気感染はせえへんし、菌が入っても健康な人間には移れへん。そのかわり用心に越した事はない食器や排便まわりのもんには熱湯消毒を忘れんな。生水、生物、アイスは絶対あかんど。それからのう、安静と十分に栄養補給をさせい。わかったな。」
「はい。」
勝子の落胆は相当なもので、返事をするのがやっとという感じだった。
「薬を作って来っさかいそこで待っとれ。」
平賀はペンを置くと肘掛に踏ん張って立ち上がった。勝子は命の懇願をするように、それを見上げている。平賀は一つ頷いて診察室の奥へと消えた。
「一志、べっちゃないよってにな。先生が治してくれる。」
勝子は一志の服装を整えながら、まるで自分に言い聞かす様だった。一志にまた毛布を掛けて抱き起こし、勝子は待合室に場所を変えた。
「先生、治んのに、どれくらいかかるんやろか?」
勝子の不安は時が経つとつのるばかりで、奥の平賀に声を上げずにはいられなくなった。
「長なんどう、完全に治るまで二ヶ月はかかる。」
平賀もそれに答えた。
「先生、チフスやったら隔離せんでもええんかのう?」
「どこで隔離さすんじゃ。死ぬまではかまん(かまわない)、家においとれ。心配せんでも死んだら保健所や消毒や言うってややこしなる。」
平賀の言葉にはまるで血が通っていなかった。一志を抱きしめる勝子の手に力が入った。
明治三十年に施行された伝染病予防法第三条には医師の届け出義務、第七条には隔離収容の措置について規定されている。しかし、未だ混乱した社会情勢の中、隔離病棟など全くといっていいほど整備されていない田舎の過疎地域では、金銭的にもそれを厳密に実施することは困難で、また世相も空気感染する結核等を除いて敏感に反応を示すことは少なく、甘んじて自宅療養を許す傾向にあった。ただしそれが吉と出るばかりでなかった事はここに記すまでもない。
平賀が法律を無視したというよりは、その時代背景に配慮し、それらを熟知しつつ、最善の方法を選択したに過ぎなかった。もちろん葛藤はあった。
「なんかあったら行ったるさかい呼びに来い。」
平賀が奥から出てくると、薬の入った袋を二つ摘んで勝子に手渡した。
「先生、お金…。お父さんが沖から帰って来んと…。」
勝子は申し訳なさそうに佇(たたず)んでいる。
「ええわい、ある時に持って来い。それより早よ帰んで寝させい。」
平賀はそう言って、そこを後にした。勝子が恐縮して頭を下げた。
勝子は家に帰り、一志を寝かし付ける。そして、呆然とそのそばに座り込んだ。
「この子が死ぬ? そんな事はない。絶対にない。」
自問自答しては首を大きく横に振る。そんな時間がどれほど過ぎただろうか、幾男が泣き出し、攣られて俊克も声を上げる。勝子ははっと我に返った。
「おかあちゃん。」
抜け殻と化した勝子に、言葉もままならぬ俊克が必死で呼びかけていた。
「とっちゃん、ごめんよ。ご飯食べなのう。一志にもご飯やらな薬も飲まれへんもんな。ありがとうよ。」
執拗な呼びかけに勝子がやっと応じて、俊克も笑みをとり戻し甘えた。勝子は一志に一言優しさを与えて日常の仕事に再び取り掛かった。炊事、洗濯、看病と汗を流し死の恐怖を追い払おうとしているようだった。
「俊克、明神さんへ行こう。はい、おいで。」
家事が一段落して勝子は氏神へ参ることを決めた。幾男を抱き、俊克が道草をくって前に進まぬのは同じだったが、アヒルの行列には見えなかった。ゆるやかな御旅の坂を三人はゆっくりと上(のぼ)った。
神殿までは巾七〜八間(けん)ほどの道を挟んで、両端に益荒男の古松が五町も並び続いている。それは雄々しく神に近づく道に相応しかった。
通称「明神さん」、伊勢久留麻神社は敏達天皇(五七二〜五八五年)の時代に、遠く伊勢ノ国久留真より勧請せるものと云われて由緒あり、近隣の住民からは慕われ、崇(あが)められて存在されている。
また明神さんには境内に加え、拝殿の背後に伊勢の森と呼ばれる林を蓄えて、子供たちにも格好の遊び場を提供し親しまれていた。
勝子が五円玉を一枚投げ込み、鈴の綱を振る。カラカラと乾いた音が境内に響き渡った。勝子は俊克の手をとって合掌させる。
「明神さん、どないぞ(どうか)一志を助けたっておくれ(下さい)。ほんですまんけんど、誰にも移さんといておくれ。」
勝子は長い時間を費やして何度も何度も心に念じ懇願した。
俊克も母と行動を共にしたかった。俊克は幾度もこっそりと目を開けては勝子の様子を伺う。そして、その度にまたきつく目を閉じて母を真似た。
「俊克、よう頼んでくれたけ? かあちゃんもよう頼んだで。ハハ。」
勝子は俊克の背丈まで膝を折って屈むと、笑顔を向けてその頬を軽く突ついた。俊克が照れくさそうに笑って頷いた。伊勢の森はそよ風に靡(なび)き、甲斐甲斐しくも蒼く萌えていた。
この後、勝子のお参りは三ヶ月間に及んで毎日続いた。その必要が無くなくなる日まで。
解熱剤の効果は覿面(てきめん)だった。苦しんだ高熱は頓服によって持続して下がり、一志の顔にも表情がもどっている。チフス菌に作用するサルファ剤も功を奏しているようで、服用を始めて5日目には胸腹部のバラ疹をすっかり消し去った。しかし、発病から二週間を過ぎて病状に頭痛・腹痛を伴い初め、未だ予断を許さない状態である。
「良うないよんのだあか?」
一志の顔を覗いては勝子の不安は募るばかりだった。金がない。先の見えぬ看病に勝子の溜息をつく回数が日に日に増している。
「かあちゃん。しんどい。」
一志は勝子の姿を見つけては同じ言葉を繰り返した。
「しんどいのう。もうちょっとの辛抱やさかいな。」
勝子にも優しい言葉は見つからなかった。一志に対してまた同じ言葉を投げかける。
「かあちゃん、みかん食べたい。」
「一志、堪忍やで。食べさしてやりたいけんどな、生のもんはあかんのよ。」
懇願する一志に勝子は困った顔で答えるのが精一杯だった。唯夫が側で聞いて、なにやら思案を巡らせていた。
「たーくーん、行こうかあ。」
夏だというのに長袖・長ズボンに長靴、異様な風体の子供達が唯夫を誘う声がする。麦わら帽子だけがその季節を象徴していた。
「早いのう。」
唯夫が目を擦りながら表に出る。
「なに言よんのな、昨日、たーくんが五時や言うたんでないか。一志にゲンジ捕ったんのだれ?」
三人の中で一番背の高い勘太が膨れっ面で怒る。いつもにも増して頬が赤く見えた。
「うん。ごめん。」
唯夫は申し訳ない顔で謝った。
「ほな行こかえ。」
色白で端正な顔立ちの雪久が口火を切る。唯夫と勘太が大きく頷いた。勘太は自転車にまたがり、その後ろには雪久が乗っかる。唯夫は二人を追いかけて、長靴をガボガボといわせながら走った。
秋水の家に自転車は大人用一台きりしかない。子供用に自転車などを買う余裕もなければ、はな端からそんな考えも毛頭ない。唯夫がその自転車に乗れないこともなかったが、利三郎は唯夫には大き過ぎると言う理由でそれを許さなかった。勘太の家は小金持ちで彼は自分の自転車を持っている。
「雪ちゃん、後で代わってよ。」
唯夫は必死で走りながら懸命に頼んでいる。
町から山までは一里に満たないが、平坦な道を十分も過ぎればその傾斜は徐々に増して行く。
勘太がサドルから尻を持ち上げ前のめりになってペダルを踏む。唯夫は雪久が尻を置く荷台に腕を突っ張って押している。二人の額に汗が滲んで顔が歪んできても、雪久は腕を回してただ掛け声をかけるばかりだった。
「雪ちゃん、もう降りーや。」
唯夫が根を上げて、勘太も力尽きた。
「もうあかん・・・。」
勘太はそう言うなりペダルから足を離した。自転車はその瞬間に停止して横倒しになった。唯夫と勘太がそこにへたり込み肩で息をしている。
「ちょっと休憩じゃ。」
勘太は大の字に寝転んでしまった。
「しゃあないのう、わえ、先に行っとくで。二人ゃ後で歩いて来いよ。」
体力の残っている雪久は自転車を起こすと、勢いにまかせ坂道を駆け上がって行った。あと五分も行けば、どっちにしろ自転車では登れない山道へ踏み込むことになる。そこからはかえって邪魔になる自転車を、先に行って隠しておこうという寸法だ。
唯夫が腰を上げて駆け出した。勘太もしぶしぶそのあとを追う。
「今日はどこ行く?」
雪久も力を出し切ったのか、座り込んで二人を出迎えた。
「この時間やったらまだ誰も先に来とれへんだれ? 賀田池の方へ回って、ほんでほん、千本くぬぎ椚に行く。」
唯夫は息をはずませながら、したたり落ちる汗に手拭を当てた。
「よっしゃ、行こか!」
勘太と雪久の気合が入って、お互いの顔を見合わせた。沖に向かう漁師のそれを彷彿させて、三人は急な山道に入る。
ほんの少し歩いただけでその道幅は細くなり、木が両側から覆い被さって天井ができた。積もった落ち葉は、腐葉土と化して進むごとにその足元も悪くなっている。この辺から上には田も畑もなく、ましてや民家もない。静けさの中にキジバトが「ホーホーホッホー」と気味の悪い低音を轟かす。文字どおり木漏れ日だけが彼らに勇気を与える光であった。
「ここらで一発蹴っとこか?」
唯夫が適当な椚の木の前で立ち止まった。木の肌は水分を含んで、しっとりとした感じがする。蜜がたくさん出ているようで、辺りには独特の甘い匂いも漂っていた。何よりも彼らが蹴るにはちょうどよい太さだった。
「ちょっと待てよ。ゲンジの尻見えとる。」
雪久が椚(くぬぎ)にできた瘤の穴を覗いて腕をこちらに突き出し、しきりに手をこまねいている。勘太がきょろきょろと何かを探して、細い小枝を拾い雪久に手渡した。鍵穴をこじ開けるように片目を閉じて、雪久が穴に小枝を挿入する。三人の頭が瘤の前に並んで期待に胸を膨らませているが、三者三様口をパックリと開けた顔は間抜けだった。
「出てきた。カボじゃ。」
早足で逃げようとする虫に、慌てて雪久が手を被せた。
クワガタ虫の呼び方はその地方によってそれぞれに特徴があり異なる。この地域ではクワガタ虫をゲンジと総称し、ノコギリクワガタはヘイケ、大クワガタはオニ、それらの雌をトチカボなどと呼ぶ。またコクワガタはハリと名づけられて、今雪久が手にしたカボはその雌にあたる。子供達には角が大きく貫禄抜群のヘイケがもてはやされた。
「よーし、蹴んどー。」
唯夫が椚の山手に勇ましく立ち、勘太と雪久がその下手に陣取って上を見上げる。唯夫は「せーの。」と心に唱えると勢いよく足を突き出した。瞬間、唯夫がそこから消えた。落ち葉が舞い上がり黒い物体が二人の間を転げ落ちる。
「あーあ。」
二人は目を丸くして行く末を見守った。
「スカくろた。」
唯夫は大木の前で止まり、二人を見上げて無事を知らせる。三人の大きな笑い声が静かな山に響いた。はいずり上がって唯夫が元の位置につく。やり直しだ。
「ごめんよ。もう一回やっさかいなー。滑んねん。」
講釈はよい、早く蹴れ!
「にーの。にーの。ドーン。」
狙いに狙いを重ねた結果、今度はうまくいった。腰も入ってうまく体重が乗った蹴りだった。椚に衝撃が走って、確かに二つ三つ小さな影が木から落下した。
「勘ちゃん、そこじゃ。そこらに落ちた。」
勘太も雪久も這いつくばって周辺を探していた。
「おったー、ヘイケじゃ。でっかいどー。」
勘太が喚起の声を上げて、唯夫と雪久が駆け寄った。水牛のように太く力強い角は、少年たちの心を十分にしびれさせた。唯夫の鼻はまたもや鳴っている、かなりの興奮のようだ。寛太は手拭を広げるとヘイケをそっと置いて丁寧に一つ折りたたんだ。次ぎにカボを受けとりまた同じようにして手拭を折りたたむ。そして、それを丸め込み帽子の中に掘り込んで被った。こうしておけばいくら捕っても虫同士が喧嘩して傷つくこともないし、その点虫かごのような不備はない。最初の木で十分な成果を得て幸先は良い。三人はにっこりと笑っって先に進んだ。
「カブトおっけんどのう(いるけどなあ)。どないする。雀蜂(ごんごろ)がいっぱいじゃ。」
勘太が遠目に呟いた。
大木が蜜をふんだんに出して昆虫類を集めている。その中には狙いのカブトムシもいるが、如何せん雀蜂がたむろしていた。容易に手は伸ばせない。
「刺されたら死ぬど。」
雀蜂の怖さはよく知っている。雪久も諦め加減で唯夫に振りかえった。
「アホか。カブトそこにおんでないか。捕らんとい帰んのかえ?」
雀蜂は距離さえおけば、そう怖くないことも三人は知っている。椚の大木から安全な距離を構えて三人が頭をひねっっていた。宝はそこにある。
「待(ま)と。あいつら巣に帰る。カブトは卑(いや)しいさかい雀蜂よりずーっとおるで。」
唯夫が自信たっぷりに言う。身動きもせず、上目使いに三人が待っていると、案の定、ほどなくして雀蜂は動いた。
「ぶわー。」
三人が泡を食って体をよ避ける。雀蜂たちは次々に彼らの頭上を通り過ぎて飛び去った。
「今じゃ、早よせい。また来んど。」
唯夫が美味そうに蜜を吸うカブト虫に手を伸ばして確保する。勘太は木を蹴るが葉も揺れず、全く響かない。雪久は根元に穴を掘りだした。
「おーい、また来た。」
雀蜂の羽音が、三人の頭の上でブンブンとけたたましく鳴っている。愚図愚図とはしていられない。
「おるけ〜。」
唯夫と勘太は用を済ませて、既に木から離れているが、雪久は根元に引っ付いて離れようとしない。
「ゴンゴロ危ないどう、雪ちゃん、もう行こう。」
勘太がけげん怪訝な表情で遠目に見ていた。雀蜂はもう木に留っているが、根元の雪久には興味のない様子だった。雪久も雀蜂が眼中に入っていないのか、一心不乱に堀続けている。彼と雀蜂のその間隔は、お互いを刺激しない最低距離を保っていた。
「でったい、おる。」
うわごとのように雪久が口にするのは、さっきからそればかりだ。唯夫がついに動いた。勘太もそれに続く。三人が椚の根元にしゃがみ込んだ。
「おった。」
三人が同時に声を上げた。茶焦げた土に薄黄色い生物がうごめ蠢いていた。カブト虫の幼虫である。
「蛹(さなぎ)もおっかも知れへんど。柔んわり掘れよ。」
幼虫を見つけてから、彼らの手つきはその目当ての物を探す為、前にも増してよりいっそう丁寧に土を掻き分けている。すると、深い根の隙間から一匹の蛹が現れた。飴色に体色を変えて六本の足を胸に揃えじっとしていた。角は真直ぐに伸びてもう既に将来の姿を誇っているようだ。唯夫がゆっくりと手を伸ばし、さらに細心の注意を払いながらそれを取り上げた。摘まれた蛹は目を覚まし、その皺(しわ)くちゃな尻をしきりに動かせて唯夫の手のひらを擽(くすぐ)った。その風体と仕草がいかにもこっけいでかわいい、三人はしばらく蛹を眺めて顔を綻(ほころ)ばせた。
「よし、行こう。」
唯夫は蛹を元の位置にもどして土をかけてやった。穴を半分ほど埋めて雪久も幼虫をそこへ置いた。幼虫や蛹を持ち帰ってもその環境作りや世話に手間がかかり、羽化させず死なせてしまうことが多い。彼らは目的を十分に果たして満足していた。
三人は椚の根元に最後の土を被せた。そして我に返りはっとして上を見上げた。思わず身を竦(すく)める。
「ようけおんどう。」
勘太が身もおどろに呟(つうや)いて二人の顔を見た。雀蜂の数が増えている。唯夫が「シーッ。」と人差し指を唇に当てると、目で合図して三人はそろりそろりと後退りを始めた。彼らの目は椚の一点を見据えて動かない。それは雀蜂たちから十分に遠ざかり、そこから一斉に走り逃げ出すその瞬間まで続いた。
さきほどの騒動に興奮してか三人は、談笑の声も山中高らかに響かせて千本椚に向かったが、山は深くなり、いたるところに怪しげな草木が茂ってまた口数も減ってきた。心細くなったのか先頭の唯夫は小枝を折って、それを手に振り回しながらに虚勢を張って歩いている。
「うわー!。」
唯夫がたじろいで倒れると、後の二人も将棋倒しに尻餅をついた。唯夫が驚いて放っぽり出した小枝が遅れて勘太の頭に落ちてきた。
「たーくん、どないしたん?」
勘太が頭を擦(さす)りながら呆(あき)れ顔で言った。
「へ、ヘビや、ん〜ん、蝮(はめ)じゃ。」
唯夫が声を裏返して、雪久と勘太がそれぞれにその前者の肩越しから恐々と覗き込む。
全体的に茶褐色をした体には背に特徴的な楕円形の斑紋があって、他種の蛇に比べ明らかに太く短かった。エラ張った三角の頭に時折放つシャーという警戒音は蝮に間違いなかった。
「もどろか?」
勘太は唯夫の腕を鷲掴みにしている。
「なんでよー、千本椚はもうそこでないか。シーッ、シーッ!」
声は出せども手はでない。唯夫は尻餅をついたまま後退りするばかりである。それに押されて勘太と雪久もその分下がる。その連なった三人の姿はさながらムカデの後進のようだった。
蝮は威嚇してこちらに鎌首を擡(もた)げているが、黒く冷たい目には余裕すら感じられる。敵も彼らに道を譲る気がないように見えた。
しかし、蝮は極めておとなしい毒蛇である。危害さえ加えなければ、蝮から攻撃してくることはない。近寄らないことが一番であることを唯夫たちも知っていた。
「別に踏んだわけであれへんし、あいつも怒ってないよ。待とう。」
唯夫が蝮に対してあぐらに腕組みをした。勘太は膝を抱えて顎を乗せ、その肩にもたれて雪久が中腰に引っ付いている。静かな時が過ぎ、三人は呆然自失の真顔で観察を続けたが、蝮は鎌首を下ろしただけでその場に悠然とただ留まっている。烏が鳴きながら上空を飛んで行く。
「アホー、アホー、アホー。」
烏の鳴き声が完全にそう聞こえて三人は同時にこけた。
「たーくん、今日は諦めよ。帰(い)のう。」
勘太は腰を上げると、唯夫を説き伏せるように言った。烏にアホとあしらわてまで、そこにいる必要はない。
「ほんまやなあ。帰のう。蝮が道塞いで通してくれへんのは、行くないうて神さんが言よんのかも知れへん。」
唯夫も諦めがついたのか、立ち上がって尻の土を掃(ふる)っている。
「ここからやったら近道知っとんで。ついて来いよ。」
雪久が自慢げに先頭へ回って坂を下り始めた。唯夫は後ろ髪を引かれて、何度も蝮に振り返り遠ざかって行った。蝮がピロピロと舌を出してそれを眺めていた。
「こっちは元来た道やろ、そやからこっち。」
雪久は二股に分かれた道にさしかかり、一瞬躊躇したが自分に言い聞かせて一方を選んだ。暫く進むと、道は少し広くなって木立の隙間からは眼下に家も見えた。
「この道早いなあ。こっちから上がってったらよかったのう。」
唯夫がやや後悔しているように声を出した。
「ほんでもな、この道は急やろ、登ってくんのんしんどいよってに…。それに椚がないだれ。」
雪久の言葉に、唯夫と勘太が辺りを見まわして納得した。
道の向こうに明かりが射している。三人はそこをめがけて走った。
「なんやーこの広っぱ?」
一反(三百坪)はある。山中に広がるその土地には低い草が茂っていたが、大きな木は一本もなかった。道はその空間を避けるように二手に別れ、そこを過ぎてまた一本に繋がっている。
「こんなとこあったかな?」
道案内の雪久も首をひねった。どこかで一本道を違えたらしい。
唯夫が一歩そこへ踏み出した。
「なに〜これ、ハハハ。」
長靴をはいた唯夫の足が、ガボガボと膝までめり込んだ。その地盤はかなり柔らかいものだった。面白がる唯夫につられて、雪久と勘太も足を踏み入れた。三人が広っぱの横断を始める。
「なんで、こんなボコボコいうんや?」
はしゃぎまわりながらそこを走り抜けていく勘太が、ふと言葉をもらす。唯夫はそれに反応しようと後ろ向きになって、そこに転んだ。そしてその時とっさに何かの板をつかんだ。
「何、これ?」
その板は先が尖っていて薄っぺらく平べったい。土がついて汚れてはいるものの何やら文字らしきものも書いてある。どう見ても人間の手が加わった物のようだった。
「たーくん、それ墓にあるやつちゃうん?」
勘太が神妙な顔で言った。唯夫が手にしていたのはまさしく塔婆だった。
「ここ、土葬(どそう)???」
雪久が頼りない声で、はっきりとその確信をついた。
「ギャー、ウワー、ガオー。」
唯夫が塔婆を天高く放り投げた。三人はそれぞれに、声にならない声を上げて喚き散らす。既に土葬場の中央付近に達していた三人は、再びゴボゴボと音をたてながら、慌てふためいて逃げ出した。足を取られてこける者、謝罪の言葉を口にする者、念仏を唱える者、三者三様に恐怖の面持ちを表現している。
その朽ち果てて荒れた状態からすると、三人が遭遇したこの土葬場はもう使用されてはいないようだが、山手には土葬の風習がまだたくさんあった。土葬が存在する知識はあっても、実際には見た事もなかった三人だった。
三人の冒険にも近いゲンジ捕りは終わった。土葬場からも遠ざかると次第に元気を取り戻し、そのことが無かったかのように意気揚揚と山を降りた。少しだが収穫もあったので、太い大きな蜜の木からゲンジのエサとする樹皮を剥いで持ちかえることも忘れなかった。
三人は詰め寄って寛太の自転車に同乗し、風を切り坂を下る。上機嫌で爽やかな笑みを蓄えた三人の表情は皆一様に明るかった。
唯夫たちが明神さんの側(そば)を通ると、良光やその同級生たちが境内で野球に興じていた。
「唯夫〜! ちょっと来い。」
良光が叫んだ。
「にいやんじゃ。」
唯夫がきょろきょろと声の主を探して、良光を見つけた。
「たーくん、これやるわ。」
勘太が帽子の中から丸めた手拭を取り出した。
「ええん?」
ゲンジの分け前は、通常ならばジャンケンで決める。唯夫が不思議そうに受け取った。
「一志に早よ元気になれ、言うといてくれ。」
雪久が照れくさそうに鼻の下を指でさす摩っている。
「ありがとう。」
唯夫が嬉しそうに礼を言った。
「ほんならのう。」
勘太が自転車に跨(またが)る。
「たーくん、昼から泳がんかよう。浜で待っちょるよってになあ。」
雪久は荷台から手を振りながらに叫んで行った。唯夫も二人の姿を目で追っている。
「唯夫、早よ来い言いよんのじゃ。」
再び怒鳴られて我に返った唯夫は、良光の元に急いで走る。
「どこへ行って来たんな。」
「ゲンジ捕んに…。これ…。」
「ボール拾て来い。」
唯夫は寛太から受け取った手拭を見せようと、その持つ手を上げたが、良光は見向きもせずに命じた。
「にいやん、わえ、早よ家に帰(い)にたい。」
「あかん、拾て来い。玉垣の裏に落ちとるはずじゃ。」
唯夫は一旦拒んだが、良光のきつい口調に諦めて、その指差す方向へトボトボと歩いて行った。玉垣の裏には田んぼが広がる。
「どこだあか?」
玉垣と境内の間には、背の高い草むらがあってその姿は見えないが、境内からは良光たちの歓喜に満ちた声が聞こえている。唯夫は玉垣と田んぼとの間にある畦道に立って辺りを見まわした。蛙がゲコゲコと煩(うるさ)かった。
「あった〜。」
青稲がきれいに並んだ田んぼの中央付近に白い物が見えた。唯夫の顔が緩んでフーと一息吐いた。すぐさま唯夫は水を張り詰めた田んぼに一歩踏み入れたが、足がジュルジュルとめり込み、もう少しで長靴の中に水が入りそうになる。
「あかん、脱ごう。」
唯夫は畦道に座り込むと、両足から長靴を引っこ抜いてそこに揃えて置いた。ズボンも邪魔とばかりにスルスルっと下ろす。パンツ一丁になった唯夫は田んぼに再び入って行った。
「うはは、こちょばい。」
唯夫の足に泥鰌(どじょう)やら源五郎やらが絡み付いてこそぐった。唯夫はぬかるみの中を一歩一歩たしかめながら、慎重にゆっくりと進んで白球に達した。
「よっしゃ。」
思わず白い歯がこぼれる。落とさない様にしっかりと両手で白球を握り締めた唯夫は、ピチャピチャと水を跳ね上げながら大股で足早に復路をとる。
「バシャーン!」
やはりこけた。畦道がもう目の前というところで、膝から落ちて両手を突いた。泥水が勢い良く飛び散って、唯夫のありとあらゆる部分に黒く付着している。利三郎の怒声が唯夫の頭の中をよぎって思わず緊張したが、我に返った時、白球が右手の中にあってホッとした。
「くそえい!」
起き上がりようやく畦道に立った唯夫は白球を玉垣の向こうへ力一杯に投げ込んだ。
それと同時に発した言葉が、良光に聞こえればえらい目に合わされる。唯夫はズボンと長靴を抱えて、一目散に遁走した。
ボールがコロコロと境内に転がり込んだ。
「唯夫〜。」
良光は大声で叫んだが、唯夫の姿はもうない。
「キリギリ〜ス・チョン」
草むらでは蟋蟀(きりぎりす)がその名のとおり高らかに、さも揚々と鳴いている。良光の機嫌とは裏腹に境内にはのどかな風が吹いていた。
唯夫がそろりと勝手口の戸を開けた。勝子の後ろ姿が目に入る。
「かあちゃん、かあちゃん。父ちゃんおる?」
「まだやで・・・。なんなあ、あんた、そのかっこは・・・。よそばしい(汚い)よう。」
唯夫の小声に振り返って、勝子は仰天した。まさしく泥まみれだった。
「ゲンジ捕ってきてん。こられ。」
「うわー、ごっつい大きいのん捕ってたなあ。」
唯夫が有頂天に手拭を開くと、ヘイケはハンカチの中の長い幽閉をとかれて角を上げた。勝子も大きく反応して見いってくれた。唯夫の苦労がやっと報われた瞬間だった。嬉しさも倍増した。
「一志にやんねん。」
「ほうけ、そら一志も喜ばよ。ありがとう、唯夫かしこいな。」
誉めちぎられて、唯夫は一瞬背が高くなったかと思うほどに胸を張っている。もちろん鼻息も忘れてはいない。いつものものより小刻みに、しかも一段と激しく吹き鳴らしていた。
唯夫は玄関に回ると、昨日の内に用意をしておいた缶を取り出してゲンジを入れた。
缶は隣の駄菓子屋に無理を言ってもらったし、その中に敷き詰める大鋸屑(おがくず)も近所の材木屋に頼んで五分目まで入れもらった。缶の蓋には利三郎に「うるさい」と怒られながらも、金槌で釘を打ちこんでたくさんの穴を空けておいた。今日の収穫で全てが整ったのだ。
「一志―!」
唯夫は喜び勇んで階段を駆け上がる。そして、なだれ込むように一志の元へと座った。一志が何事かと目を開けた。
「一志、ヘイケ。」
兄の顔になって唯夫が得意げに言う。そして、抱えた缶の蓋をそっと空け、一志の方に傾けた。一志の顔がパッと明るくなって手を伸ばした。
「まだあんねんで、ほら。」
唯夫が麦藁帽子を上げる。いがぐり頭の上にちょこんとカブト虫が乗っていた。
「ハハハハハ。」
唯夫が笑うと、病気であることが嘘のように一志も元気よく笑った。
「また、捕ってきたっさかいな。」
「うん。」と一志がニッコリ頷いた。唯夫も満足だった。
「ここに置いとくで。ほんでからエサも作っとくよってに。」
唯夫はゲンジの缶を、一志の枕元に置いて階段を下りた。
蜜の木と称される秋楡(あきにれ)の皮を水の中に一晩浸しておくと、樹皮の内側部分にはゼリー状に樹液が浮き出て付着する。特に甘くもないのだがクワガタやカブト虫に与えるとむさぼりついて離れないほどである。それらを長生きさせる為には、これに越したものはない。
唯夫も井戸に出てその準備をした。そして、やっと安心したのか泥のついた顔を洗う気になった。
「かあちゃ〜ん、泳ぎに行ってくる。」
唯夫は既に海水パンツ一枚で立っていた。左手に水中メガネ、右手にイサリと呼ばれる銛(もり)を持っている。襷(たすき)がけにされたひもには、利三郎が網の切れ端で作ってくれた魚篭(びく)がついていて、唯夫はそれを背にまわしぶら下げていた。狩に出るその姿は子供ながらに威風堂々としていた。
「あんた、上を着て泳がなんだらクラゲに刺されんで。ちょっと待っとりよ。」
勝子は炊事の手を止めて家にあがると、黄ばんでくたびれたシャツを持って来た。そしてシャツをくしゃくしゃに捲り上げて首の穴を唯夫の首にかけた。
「はい、行って来い。ようけ捕っておいでよ。」
「………。」
勝子は満足げに景気づけたが、雄姿が台無しになった唯夫は、首にシャツを垂らしたままそれを見つめて固まっていた。
「それ、いやなんけ? かっこ悪いん?」
勝子が困った顔で訊いた。
「うん。」
唯夫は項垂(うなだ)れ、申し訳なさそうに上目使いで勝子を見ている。
「しゃあない子やなあ。ほら、行っておいで。」
勝子は再びシャツをその首から取り払うと、唯夫が嬉しそうにはにかんだ。勝子も微笑み返して唯夫の尻をポンと叩いた。唯夫が駆け出す。勝子は唯夫を見送った後、日の当たる所に大盥を置いて海水浴後の掛け水を蓄えてやった。
唯夫が凛として浜に下り立った。浜では子供たちが入り乱れて海と戯れている。男も女も小さな子は細波(さざなみ)に揉(も)まれ悲鳴にも近い歓喜の声を絶やさない。幼稚園になるような者は、やや深みにも足を踏み出して泳ぎの練習に余念がなかった。背丈が大きくなるのに従ってその進出は海の向こうへと広がっている。しかし、大人の姿はどこにもなかった。さながら子供たちの楽園である。
乳白色の砂浜は、海へ達するには少し遠く感じるほどに十分な巾があり、島に沿って一里にも長く続いている。その様(さま)は波打ち際に天女の羽衣を敷き詰めたようで眩(まばゆ)く美しかった。少し北に上った所には海亀の産卵地もある。この海は遠浅ではないが、青く澄んだ水は太陽の光を深く吸い込んで海中のあるあらゆる物に降り注いでいた。
「た〜く〜ん。」
岩場から飛び込みを繰り返し、水しぶきを上げて遊んでいた勘太が唯夫を見つけた。寸前に着水した雪久も海面から顔を出して手を振る。唯夫も二人の所に歩み寄って行く。
「もう、来てだいぶなるん?」
唯夫は前後屈や側伸やらの準備運動をしながら訊ねた。
「ううん、さっき来たとこやで。のう、雪ちゃん。」
勘太が海から岩場に今はい上がったばかりの雪久に同意を求める。雪久は体中から水を滴り落として息を整えていた。
「わえ、ちょっと行ってくる。」
唯夫が水際に腰掛けて、水中眼鏡のガラスを藻で磨いている。小さな蟹が唯夫の側(そば)まで近づいてポチャンと海に消えた。
「ほんならわえも行く。」
勘太と雪久もその気になって大急ぎで支度をした。
唯夫が奇声と共に飛び込んで、二人もそれに続いた。三人は海面でお互いの顔を見合わせて頷くと沖に向かい泳ぎ始めた。彼らが一掻きするごとに、海水はその黒く日焼けした肩にかけ上がり、背中にすばやく流れ出て輝いた。
沖に行けば捨石も点在し、かなりの大物も狙える。三人は我先にと前へ進んだ。岸は見る間に遠のいて、人の姿もかなり小さくなって来た。連なって泳いでいた三人も思い思いに散らばって行く。それぞれがイサリを手にしている加減で、その方が安全であることを彼らも心得ていた。
「蛸や。」
五感を研ぎ澄まして泳いでいた唯夫は、海底にある大岩の陰に白く劣化した浅蜊の殻が散乱しているのを見つけた。唯夫は一瞬ニヤっと笑った。そしておもむろに体を返すと、三尋(みひろ)ほど下の底を一直線に目指した。唯夫が進むと、粒子状の気泡が無数にできて海面に上がって行った。それはまるで、彼の身体全てから放出されているかのようにも見える。唯夫が逆さまになったままその巣穴を覗きこんだ。
「おった。」
唯夫と蛸の目が鉢合わせして、唯夫は右手にもったイサリを力一杯に突き立てた。黒い墨が海中に広がる。唯夫は一仕事終えて体の力を抜いた。すると一点を凝視しながらも、唯夫の体はゆっくりと浮かび上がって行く。
「プハー。」
海面に達して唯夫は大きく息を吹出した。そして深呼吸を繰り返すと、また顔をつけて海底の様子を探った。蛸はもがいていた。イサリの柄に足を絡ませている。
「もうちょっと。」
唯夫は海面に漂いながら、逸(はや)る気持ちを抑えて蛸の動向を見守った。
「よっしゃー、行くで〜。」
蛸の足が柄に巻きついて体の半分が巣穴から出た。唯夫はこの時とばかりに再び潜った。唯夫の気配を察知して怯(ひる)む蛸。巣穴に戻りかけたところに唯夫はイサリをキリキリと捻(ねじ)り回した。唯夫の息が切れてくる。唯夫は巣穴に両手を突っ込んで蛸の胴体を掴み、そのまま力尽くで引きずり出した。そして、イサリの柄を握り直すと海面に急いだ。
「あー、死ぬかと思った。」
息も絶え絶えの唯夫は、水中眼鏡の中も鼻水でグチャグチャになっていたが、天に向かって突き上げられたイサリの先には、しっかりと大物の蛸が刺さっていた。
唯夫は立ち泳ぎをしながら魚篭を腹に回すと、蛸をイサリから抜き取ってその中に入れた。そして、魚篭を目の前に上げて戦利品を翳(かざ)した。唯夫の頬が緩む。
「やったー。」
思わず勝利の雄叫びも上がる。唯夫は魚篭をまたその背に戻し、再び獲物を求めて泳ぎ出した。右前方に勘太の姿が見えた。しきりに潜水を繰り返しているようだった。
「何がおるんやろう? カレイかな?」
勘太に近づくに従って、海底からは岩が消え、等間隔に波打った幻想的な砂地だけが広がって行く。ときにはキスの群れが唯夫の前を通り過ぎたが、それは動きが速すぎてめったなことでイサリの餌食になる代物ではない。唯夫は勘太が何をしているのか不思議に思った。
「たーくん、大アサリ。」
海面に浮上した勘太が大声を張り上げて唯夫を待っている。唯夫は懸命に泳いだ。
「この下、おるで。ほら。」
勘太が魚篭を唯夫に見せる。それには手のひらほどもある白い大アサリが、たんまりと収められていた。大アサリは一志の好物である。唯夫は嬉しくなってその海底を覗いた。しかし、勘太がよほど底を堀りあさったのか、周辺は濁って何も見えなかった。
「勘ちゃん、な〜にも見えへな。あれ勘ちゃん?」
勘太の姿が見えない。唯夫はあっちこっちと振り向いて勘太の名を呼んだ。
「た〜く〜ん。あかん…。た〜く〜ん。あかん…。」
勘太はまるで魚釣りのウキのように、浮き沈みをしては弱音を吐いていた。ほぼ溺れていると言っても過言ではない。
「なにしよんの?」
「重たいねんもん。」
勘太はかろうじて浮いてはいるものの、必死に手足をばたつかせて限界が近い。しかし、大アサリを捨てる気にもなれず苦しんでいる。
「ようけ、ようけ捕るよってに。」
唯夫が勘太の魚篭を下から持ち上げてやると、勘太は唯夫の魚篭に大アサリを移し始めた。
「あー、しんどかった。」
収穫した大アサリの半分ほどを唯夫の魚篭に移して、浮力を取り戻した勘太は一安心というところである。
「たーくん、そんだけやるわ。」
「うん、ありがとう。」
貝も手に入ったし、今は勘太もしっかりと浮いている。唯夫は嬉しかった。
「雪ちゃんはどこ行ったんやろう?」
勘太は落ち着いたのか、雪久を心配する余裕も出てきた。
「幽霊船の方やと思う。」
唯夫が沖合いを指差して言った。
彼らがそう呼ぶのは、不要になった漁船を故意に沈めた物だ。それはやや斜めに傾いて沈没している。船の原型は留めてはいるものの、木は朽ちてあらゆる所に穴が開き、海藻類もかなり付着していた。その不気味さは幽霊船と名付けられても否めない。しかし、捨石に加え沈船には魚が群がって漁礁と化し、見事なまでにその役目は果たしている。
二人は沖に泳ぎ出す。十分ほどで目印の沈船ブイが見えてきた。あまり大きくはないが黄色に塗られたそれは良く目立つ。
やはり雪久はここだった。ブイのロープに掴まって休憩をしている。
「どない? 突いたけ?」
二人が近寄って雪久に声をかけた。
「うん、見てみ。」
雪久が自慢げに背を向けて魚篭を二人に示した。五、六匹の魚が入っていた。大物もいる。
「うわー。」
唯夫が驚嘆して見せた。勘太は有無も言わず、すぐさま様子見に潜った。
「おるおる。」
浮かび上がって勘太が報告すると、唯夫もその気になった。
唯夫はイサリの柄尻に取り付けられたゴムを強く引っ張り、その柄に添えて握ると沈船へと潜って行った。海底に達して、船底付近をするどく凝視した。
「おった、ボテや。」
唯夫はイサリを一尺級のアブラメに突き出し、その手を開いた。イサリは唯夫の手から勢いよく飛び出して水中を走り、気泡が舞う。ガツンと鈍い音がした。アブラメに鼻先三寸で交わされて、イサリは船に突き刺さった。唯夫の顔が歪む。唯夫は両足を船に突っ張ってイサリを引っこ抜いた。
「でっかいボテおったけんど、逃げられてもうた。」
唯夫は波間を漂い、勘太に両手でその大きさを表しながら悔しがった。
「もう一回行って来る。」
ハーっと息を大きく吸い込んで唯夫が海中に消えた。海底まで垂直に潜ると、そこからは海底に沿って水平に探索をする。
「ガシラや、大きい!」
唯夫は魚の斜め上方からイサリを放つ。イサリは真直ぐに進んでガシラの眉間をまともに捉えた。魚は二、三度尾鰭を振り、鮮血を水中に滲ませて暴れたが、一瞬で動きは止まり、イサリを脳天に突き立てたままゆっくりと腹を横にした。ピクピクと断末魔の痙攣をしている。
唯夫はイサリを再び手にすると海面を睨む、太陽が波に揺らいで目に映った。唯夫が海底を蹴り、その体は光に吸い込まれるように上昇した。紅色も鮮やかな良型のガシラを逆さに刺したイサリは、唯夫よりもわずかだけ先に海面へ到達し、勘太と雪久の注目を集めて歓喜を誘った。
「ええのん突いたのう。」
未だロープに掴まって潜ろうとしない雪久が、浮き上がったばかりの唯夫に声を上げた。
「そんだけ大きいかったら、刺身にできんで。」
勘太も賞賛を惜しまない。しかし、その表情には自分が獲物を逃した悔しさも窺がえた。
「ううん。刺身はあかんねん。煮く。」
漁師が大きな魚を家に持ち帰ることはまずない。売れない雑魚が食卓に並ぶだけである。このガシラも網で引いた物なら利三郎はきっと金に換えてしまう大きさである。唯夫は家に帰るのが楽しみになった。
その後も彼らは一時間に及んで素潜りを繰り返し、その収穫を得ていった。ベラも突いたし蛸もいた。あげくにイサリは幽霊船の主と化したボテにも命中して、そこの住人たちを総浚(そうざら)いした観である。三人は大満足して一緒に岸を目指した。
捕らえた魚によって背に膨らんだ魚篭は重く、波に蹴られて泳ぎに難くかったが、浜にたどり着いた時には幼い子供たちに取り囲まれて誇らしかった。
「魚屋へ行こう。」
蛸と頭を突いた魚は魚屋が引き取ってくれる。よい小遣い稼ぎだ。勘太がいつものように二人に言った。
三人は喜びの笑顔いっぱいに浜を上り魚屋へと走った。
「おっちゃ〜ん。捕って来てん。」
三人が手に持った魚篭を同時に差し出す。
「どられ?」
魚屋は忙しく奥で魚を捌いていたが、鼻までずれたロイドメガネの上から覗いて、その魚篭に焦点を合わせた。
「ようけおんでないか。」
少しの間をおいて、魚屋は慌しく三人の前に出てきた。手際よくトロ箱を並べて魚篭から魚を選り分けていく。
「蛸が三杯、こっちゃのは大きいのう。ボテが三匹。ガシラ・・・。どれ買うてほしいんな。」
魚屋は腰を伸ばして三人を見た。
「蛸は?」
「大きいのんが五十円、こまいのは二十円ずつじゃ。のう、兄(に)ゃん。」
「ボテは?」
「腹や体を突いとるやつはあかんのう、これ一匹だけ五十円で買うたろど。のう、兄(に)ゃん。」
「べラは?」
「べラや、こまいアブラメやこと雑魚もいっしょじゃ、あかん。貝も持って帰ね。かあちゃん喜ばさあ、のう、にゃん。」
魚屋の厳しい値踏みは三人を徐々に意気消沈させていった。
「ガシラは売れへんのきゃ?」
あまりのりっぱさに魚屋から彼らに尋ねた。
「それは売れへん。持って帰ぬねん。」
唯夫はきっぱりと言い切って断ったが、魚屋は諦めきれずにしつこい。
「高いにこ買うたんど。のう、にゃん。」
甘い誘惑だったが、唯夫は首をどうしても縦に振らなかった。
結局良い値がついて売れたのは、ほとんどが唯夫の捕ったものだった。三人がそれぞれに魚屋からお金を受け取ると、余った魚を再び魚篭に詰め込んで家路に着く。唯夫は何か悪い気がした。
「行水したら、氷食いに行かんかよう。なあ。」
唯夫は二人と別れる曲がり角で呼びかけた。勘太も雪久も笑って答える。売れはしなかったが今日の大漁は、二人の気持ちも十分に高ぶらせていた。二人も飛ぶように駆けて帰った。
「かあちゃ〜ん。」
唯夫が家に飛び込んで魚篭を勝子に渡す。
「ごっついガシラやよう、あんたこんなん突いたん? ボテもけ? えらいなあ?」
勝子はガシラとボテを摘み上げて感心した。それと同時にわがこ我子ながら唯夫の成長にも驚いている様子だった。
「煮いたら、一志も食べれんだれ? 貝も味噌汁(おつゆ)にしたってよ。」
「そうやな。おいしい言わよ。」
唯夫が満足そうな顔で話しかけて、勝子が相槌を打つ。
「ほんでも一番でっかいボテは売ってきてん。蛸も…。」
「なんぼでこ買うてくれたで?」
「こんだけ。」
唯夫が握った手を開いて、ニッコリと笑った。
「うわー、ようけもろたよう。よかったなあ。」
勝子も一緒になって喜んでくれた。
「あんな、雪ちゃんも突いたけんど、腹やよってに買うてくれへんかっとら。わえがいっちゃん(一番)ようけ売れた。ほんでな、今日ゲンジ捕んに行っただれ、一志にやれ言うてジャイケンせんと皆くれたん。」
唯夫は早口で捲(まく)し立てる。
「ほんで、どないしたん?」
一生懸命に聞いてやろうとしたが、勝子には唯夫が何を言いたいのかわからなかった。
「行水したら、皆で氷食べに行くねん。」
「おごったんのけ。ハハハ。」
唯夫がみなまで言わず勝子はピンときた。やっと難問が解けたのと唯夫の機転に勝子も嬉しくなった。そして続けた。
「そうそう、ゲンジ貰(もろ)たんやったら、今度はあんたがしたる番やで。ほんでないとな、罰が当たる。行っておいで。」
勝子は優しい顔で唯夫に諭した。「うん。」と元気よく返事をして唯夫が微笑む。
俎板(まないた)の上では赤い顔をしたガシラが無表情に天井を見つめて大口を開けていた。
唯夫は本当に活発で、病気などには全く縁のない子だった。しかし、病魔に魅入られてしまった唯夫は一週間後に倒れた。一ヶ月以上も寝こんだ一志に、回復の兆候が現れた矢先だった。
平賀が往診に訪れる。
「あかん。」
顔を曇らせて勝子に一言だけ告げた。唯夫に症状が現れて、平賀は一志に調合したものと同じ薬を与えていたが、唯夫には効かなかった。
「ストマイ言うてええ薬がある。今は中々手に入らんし、ちょっと高いけんど頼んどくど。ええな。」
平賀は聴診器をくたびれた鞄に仕舞いこむと、真っ直ぐに立ち上がった。
「宜しくお願いします。」
平賀の足元に平伏する勝子の目は、涙で潤んでいるようだった。
唯夫は発病後二週間を経過しても四〇度を超える高熱が下がらず、頭痛、咽頭痛を訴ったえ続けていた。食欲不振は増していき、唯夫は見る影もなく痩せている。ようやく歩けるまでに回復した一志の姿が勝子には救いだったが、憂慮されるべき種は尽きることが無かった。
「あんだけ、熱湯消毒もしとったのに…。なんで移ってしもたんだあか?」
勝子は唯夫の眠る側で憤りを感じながらに嘆いた。
原因は多岐に及ぶ。飲料水が井戸水であることや、汲み取り式便所などの衛生面の不備。子供ならではの不注意。貧困からの栄養不足による体力低下。伝染病に対する知識の欠如。どれを考慮しても感染は必至であって、寧ろそれを否定する事の方が困難だった。
深夜、唯夫がウンウンと唸る声で勝子は目を覚ました。勝子が唯夫の額に手を翳して顔を顰(しか)める。
「あかんわ。」
寝巻もじっとりと汗にまみれている。勝子は力を失った唯夫の体を持ち上げては着替えさせた。
頭の水枕もかなり温(ぬる)くなっている。勝子はそれを手に取って、ゆっくりと階段を下りて行った。井戸の側まで来て水枕を逆さにする。水がゴボゴボと音をたてて溝に流れた。勝子は空ろにそれを眺めている自分に気付いて、歯を食いしばった。気を取り直して井戸のポンプを押す。勝子は水を手に受けて顔へ投げかけた。井戸水は冷たい。勝子は一つ頷いて水枕に水を詰込んだ。
「フー。」
勝子は唯夫の頭に水枕を入れて溜息を着く。一時間を超えずに勝子のこの看病は続く。一志から数えてもうすでに二ヶ月を過ぎていた。
朝を向かえれば利三郎を送り出さねばならない。家事に加えて漁師の女子衆(おなごし)仕事も欠かせない。疲労は日を追う毎に増したが、子供を殺してはならないという使命感が勝子を支えていた。
勝子は明神さんへの詣でも忘れなかった。雨の日も風の日も息子の身を案じては足を運んだ。
「とっちゃん、はい、また拝まんかよう。」
勝子はいつものように、明るい笑顔をそえて俊克の手を合わせる。俊克ももうすでにその要領は心得ていた。勝子の様子を窺がうこともなく、我慢して目を閉じている。
「明神さん、私の命はやっさかい(あげるから)。どないぞ唯夫を助けたっておくれ。」
勝子の額に汗が滲む。その表情は俊克に接するものとは明かに異なった。真に迫り苦渋に満ちて、哀れにも見えた。
じりじりとした夏を知らせて蝉がけたたましく鳴き喚き、伊勢の森が覆い被さって来るようだった。
「唯夫。」
勝子がこの世のものとは思えないほどに驚嘆の声を上げる。唯夫は異様な体勢となって、階段の下に倒れていた。
「唯夫、どないしたん。階段から落ちたん?」
勝子がぐったりとした唯夫を抱き上げて肩を揺らした。唯夫の息はフーフーと荒い。
「かあちゃん…。」
勝子はかろうじて返事をする唯夫を抱き上げて階段を上る。
「かあちゃん、わえ、うんこしたかってん。」
「起きて行かんでええんやな。布団の中でしとき。」
「とうちゃんに怒られる。」
唯夫は意識を朦朧とさせながらに呟く。
「怒られへん、おむつしとんだろ。なに言よんのだあか、ほんまにこの子は…。」
勝子は涙をボロボロと流しながら唯夫を宥(なだ)めた。
「かあちゃん、わえ、目見えへんねん。ほんで落ちた。」
唯夫の不安そうな言葉を聞いて、勝子の動きが止まった。
「唯夫、目開けてみ。かあちゃんが見えんだろ?」
「ううん。」
唯夫が力なく首を振って答えた。勝子が唯夫の顔に身を寄せる。唯夫の円(つぶら)な瞳にははっきりと勝子の顔が映し出された。
「見えるだろ?」
勝子は必死な声になって、願うように再び訊いた。
「真っ暗、見えへんねん…。ううう…。」
唯夫の言葉が泣き声に変わっていく。勝子が唯夫をしっかりと抱きしめた。
「唯夫、大丈夫。男の子は泣かんの。待っときよ。先生呼んで来るよって。」
勝子は血相を変えて平賀医院へと走った。
「先生、唯夫が…。」
勝子は息も絶え絶えに平賀の玄関を開けて叫んだ。
「どないしたんな。」
観音開きの玄関戸に寄りかかってたたずむ勝子に、平賀は驚きもせずに言い放った。
「唯夫が目見えへん言よんねん。」
「なんな、そなな事か。あんだけ熱出たら目も見えへんようになる。えらい顔しっとさかい、死んだかと思たど。」
「よう、そんなこと言わよ、先生。」
勝子はなにか拍子抜けしたように感じた。
「まあええでないか。意識障害や視覚障害は出ることがある。直に治るよって心配すな。それより勝子さんよ、薬が手に入ったど。」
平賀は今まで見た事も無いような笑顔を作って見せた。
「ええ?」
勝子は平賀の笑った顔にも驚いたが、思いも寄らない吉報に言葉がでなかった。
「こんで、絶対に治る。心配すな。」
平賀は自信に満ちて、勝子を見つめた。そして、続けた。
「この薬は高いし、なかなか手に入らん。それに他にも患者が出とっさかい、そこにも渡わたさんならん。もう誰にも移すなよ。この時代じゃ、次ぎはないぞ。ええな。」
平賀はまた神妙な顔つきに戻り、勝子をさと諭した。
「はい。」
勝子は薬をしっかり胸に抱く。そして、先ほどとは違い、足取りも軽やかに家路へ着いた。ただ一つの悩みをかかえていたが、唯夫の命には代えられない。勝子は嬉しくてたまらなかった。
「唯夫。薬飲み。熱も下がるし、目も見えるようになるで。」
勝子はいつもにも増して明るい笑顔を見せた。
「おとうさん、唯夫が助かるで。」
利三郎の帰りを待ちわびて、勝子が利三郎に駆け寄る。
「熱下がったんか?」
利三郎は玄関の上がり板に腰掛けた。そして、長靴を脱ぎながらに、仏頂面で勝子に訊き返す。
「薬がな、手に入ったんよ。最前、飲ませたばーいやさかいにようわからんけど、なんにゃ、ききよるみたいや。先生はこの薬で絶対に治る言うとったし。」
勝子は健気にも畳み掛けて話した。
「そりゃ、よかったのう。」
利三郎も勝子に笑って見せた。
「ほんでものう、薬が高いんよ。」
勝子が顔を顰(しか)めて、申し訳なさそうに呟いた。
「………。」
「一粒、二百円での、三時間おきに飲ませんねんと。二ヶ月ほどかかる言われたんよ。どないしようだあか?」
「なにを!」
利三郎の顔色が変わった。
「怒らんといて。」
勝子は恐縮しながらも、穏やかに言った。利三郎はそれを横目に無言で二階へと上がる。そして、唯夫の側に胡座(あぐら)をかいた。唯夫はよく寝ていた。さほど魘(うな)されてはいない。利三郎が手を伸ばして唯夫の額に手をやる。利三郎は目を細めた。
「勝子、ちょっと行てくら。」
勝子は不安ながらに、階段の下でその様子を窺っていた。慌しく階段を下りてきた利三郎は、すれ違いざま勝子に一声かけて、また長靴を履いた。
利三郎は腕組みに、射るような目で前を見据えて歩いた。どこか足取りは重かった。
「組合長よ、おっかえ?。」
利三郎は森又蔵の家に着いて呼び掛けた。
「なんなら、だん(誰)ね?」
奥からしゃがれた声が返ってきた。
「南森の秋水じゃ。ちょっと話しあるんじゃ。」
「利―ちゃんか。おう、上がっておくれ。」
落ちついた優しい声に変わって又蔵が言った。
「いや、直に済む話じゃ、こっちへ来たってくれ。」
利三郎が破れた障子の隙間に顔を傾けると、そこから又蔵の姿が見えた。畳を上げ、そこに網を広げて、手入れをしている。長い眉毛の下に小さな目がついている。
「おうよ、ちょっと待っちょってくれっか(待っていてくれるか)。」
パチっと鋏が網糸を切る音がした。しばらくして、障子が開く。初老だが、五尺五寸もある又蔵の姿が現れた。
「利―ちゃん、どないしたんな?」
「おう、船を売ろう思いよんのじゃ。」
利三郎の言葉に、又蔵が眉を顰(ひそ)めた。
「んー、おまやこないだ船を造ったばーい(ばかり)だろ? どないすんのな?。また、博打でやられたんか?」
又蔵は心配そうに利三郎の顔を見つめた。利三郎は良光達の成長を見越して、二年前に新船を造った。無け無しの金を叩いて、やっとのことで念願の船頭を張れるようになっていた。
「アホ言うな。子がチフスになって薬買わんならんのじゃ。」
利三郎は食って掛かる勢いで、顎(あご)をしゃくり上げる。
「おまえ、船売ったら船頭できへんようになんど…。また、網引くんか?」
又蔵は意味深い言葉を慎重に投げかけた。
「わかっとらえ。しゃあないんじゃ。」
利三郎は断腸の思いであることを、言葉少なに表現した。
「ん…ほんで…・・。」
又蔵はしぶしぶ納得しながらも、その趣旨を把握しようと訊き返す。
「船はのう、うちで乗っとる富彦に売って、船頭させる。あれはしっかりしとっさかい、そのぐらいの甲斐性はあるはずじゃ。わしは丸金の船に乗せてもろて、浩二と一緒に網引く。今、丸金で網引きよる峰吉は年も若いさかいに富彦の下でもべっちゃない(大丈夫)だろう。」
利三郎は道すがら考えた結論を、一番よい方法であるかに論じた。
「ほほう。ほんで、わしにそれらの間に入れ言うわけかい?」
又蔵は飲み込みが早かった。又蔵は利三郎の顔をじっと見つめたあと、首を縦に振る。
「よっしゃ、決まりじゃ。ほんならのう、すまんけんど組合長は富彦の家に行って話をつけったってくれっか。おらは丸金へ行ってからそっちへ回って行くさかいにのう。」
利三郎は又蔵が再び首を縦に振るのを確認し、忙しく玄関を飛び出した。
「義兄(にい)やんよ。利三郎じゃ。上がんどう。」
利三郎はかってしったる人の家とばかりに上がり込んだ。障子を開けると、目の前に金次郎が座っていた。金次郎はシゲノの夫である。丸金の屋号はその名から由来している。
「義兄(にい)やんよ、頼みがあんのじゃ。いや、心配すなてや、金を借りに来たんとちゃう。」
利三郎は金次郎に向かって跪(ひざまず)いた。いつにない神妙なその顔つきが金次郎の気を揉む。笑顔が消えている。
「どないしたんな。ちょっと待て。シゲノよー。利―や来とら、茶でも持って来い。」
金次郎が緊迫した空気を和らげようと、機転を利かして声を上げる。利三郎も肩の力を抜いて息を吐き出した。
「利―よ、今日は網によう入ったか?」
しばらくしてシゲノが盆にお茶を携えて顔を出した。漁の心配はいつもの事だ。
「おう、姉(ねえ)やんも聞いてくれっか。」
シゲノが金次郎のやや下手(しもて)に座る。利三郎は真剣な表情をシゲノに見せて、金次郎に目を移した。
「義兄やんとこの船で網引かせてもらわれへんだろうか? 頼む、このとおりじゃ。」
利三郎はそれだけ言うと畳に頭を摩り付けた。
「なんやおまや、藪から棒に。頭を上げんかい。」
日頃からどっしりと構え、大声など張り上げたこともない金次郎が、気に入らない声を出した。
シゲノも目を丸くする。
「人に頭を下げんのが、あなな嫌いなおまえじゃ。そこまでするいうたらよっぽどの事か、どないしたんな。訳を言わんかいや。」
金次郎が静かに訊き正した。
「船を売ろう思いよんのじゃ。」
利三郎はゆっくりと頭を上げると、再び金次郎を見据えて言った。
「船売るてか?」
先に反応して突拍子をない声を上げたのはシゲノだった。シゲノは利三郎が新船を買う段の苦労を一番良く知っている。新船の船下(ふなおろ)ろし日に大漁旗の元、利三郎がたいそう喜んだ顔を思い出した。
「まあ、黙って利―の話を聞かんかさあ。」
金次郎が目くじら立てるシゲノを抑えて、利三郎の気持ちを察した。利三郎は事情を切々と語り始めた。唯夫の病状、薬が手に入った事、金の工面が出来ない事、全てを赤裸々に告白する。金次郎は無言でそれを聞き、シゲノは歯がゆさに顔をしか顰めていった。
「よう、わかった。ほんでものう、金やったら、わしが貸したるさかいに。船まで売んな。」
金次郎が哀れみを持って、親切にも言葉を投げかける。
「金を借りに来たんとちゃうわえ(来たのではない)。」
利三郎が真意を伝えて首を横に振った。
「偉そうに言うな。」
シゲノが利三郎の言葉に噛みついた。利三郎の眉間に皺が入り、体が小刻みに震える。
「おまや黙っとれ。」
シゲノを睨んで金次郎が続ける。
「利―よ。おまえの言う通りにしたろぞ。その代わりのう、唯夫が治ってまた落ちついたうり(時)にゃあもう一遍船を造ろかえ。そないなったら、なんぼでも喜んで金貸すよってに、遠慮のう言うて来いよ。」
金次郎がまた優しい笑顔を湛えて利三郎に語りかける。利三郎もうんうんと頷いた。
「すまんよう、そないしたってくれっか。」
シゲノもよう漸(や)く納得してその末の安泰を祈った。
季節に似合わぬ涼しい風が、庭先の風鈴を撫でて部屋に届く。チリリンと心地良い音色に三人は顔を擡(もた)げた。
「わしのう、おまえと一緒になって、ほんまに良かっとら。」
「うわー、そんなこと言うてもうたん初めてやな…。」
飾り気のない利三郎の言葉で、勝子の頬がほんのりと桜色に変わった。
唯夫の薬を得て、一層看病にも余念なく尽くしたが、自分の身には甘かった。産後幾ばくも経たぬ体で家事・看病に追われ、睡眠時間も十分に取れぬまま、気力だけで無理を通した。この子を助けるまではと、体の変調にも耐え忍んだ結果、勝子の心身は疲れ切って極限に達する。利三郎が気付いたとき、勝子は倒れずにただ座っているという具合で、唯夫の側に放心したまま頭を下げていた。勝子は唯夫と並んで床に伏せる。しかし、唯夫が回復するにつれて、勝子の病状は深刻になっていった。薬は平賀の言った通り、それ以上は手に入らなかった。利三郎が唯夫の薬を服用するようにいくら勧めても、勝子はその度「唯夫に飲ませる。」と断固にも拒む。勝子は一ヶ月で手の施し様がないまでに悪化した。
平賀の診断では、腹膜炎を併発しているという。勝子のお腹は筋肉が緊張し、木の板のように硬くなっている。腹痛は激烈の様相で、嘔吐を繰り返した。意識の混濁も数度に及んでいる。
「勝子よ。わしゃ、おまえになーにもしたらなんだのう。どこへも連れて行かなんだ。何もこ買うてやらなんだ。すまなんだよう。」
利三郎はありのままの気持ちを切々と訴えた。勝子は弱々しく首を横に振る。
「ええ子ばーい産ませてもうたやな。ありがとうよ。」
勝子も誠心誠意に答えて微笑んだ。
「…………。」
利三郎は勝子にかける言葉が見つからなかった。
「せっかく船も買うとったのにな。こんなことになってしもて、ごめんよ。」
「べっちゃない。心配すな。」
利三郎が似つかわしくもない優しい口調で言った。
「死ぬのん私で良かっとらよ。」
勝子は今わの際を悟ったように唇を噛み締める。
「あほよ、そなな事を言うな。」
利三郎は勝子を否めた。勝子が布団の中から手を出して、利三郎を求める。利三郎がそれにこたえて握り締めた。
「お父さん、わたしゃ、あの子らが大きなった姿をほんまに見たかった…。」
勝子が初めて涙を見せる。利三郎は唇を結び、無言でただ頷くばかりだった。
「ほんなら…、頼もよ…。」
勝子は朦朧(もうろう)とする意識の中で、思いのにじ滲んだ最期の言葉を残し、ゆっくりと目を閉じた。
利三郎が子供達を呼び寄せて、最期を看取る。勝子は一時間後、息をしなくなった。
「良光、平賀へ走って行て来い。」
良光が返事もせずに表へと飛び出す。間に合わない事を知りながらも、それを否定して走った。こらえようとしても、こみ上げて来る熱い涙を拭おうともせずに。
「先生、母ちゃんしゃべらんようになった。」
良光は勝子の死を口にできなかった。
「よっしゃ、先に家帰んで、お母ちゃんの横におったれ。すぐ行く。」
平賀は良光の悲嘆にくれた顔で全てを読みとった。良光は鼻を一度すす啜って振り返る。
苦虫を噛み潰した表情の平賀が、足早に良光の跡を追った。
「上がんどう…。」
平賀は傍若無人にも、ずかずかと家に上がり込む。障子を開けると勝子が顔色を失って横たわっていた。寝床の側に座り込み、診断を始める。
息を呑んで見守る良光。伏目がちの利三郎。
平賀は気詰まりな顔をして利三郎に首を振った。利三郎が静かに頷く。
「かあちゃーん。」
良光が狂わんばかりの大声を張り上げて泣き叫び、母の屍を懸命に揺らした。利三郎が制止して良光の肩を掴む。良光はそれを振り払って、また母に駆け寄りすが縋り付いた。
「死んだんじゃ!。」
利三郎が痛切に言葉を浴びせた。
良光の動きが止まる。涙でグチャグチャになった顔を利三郎に向けた。
「良光よ、せな(しないと)あかんことがあっさかいに(あるから)な、ちっと間(ま)浜へでも行っとれ。」
利三郎が優しく嗜(たしな)めると、良光は渋々に母のもとを離れた。
「今、温(ぬく)いけんどのう、もうじきしたらち冷めたなら。そないなる前に服を替えたれよ。利―ちゃん、死亡診断書を書いとくさかいにな、後で誰ぞにとりに来させよ。」
平賀は曇った表情で利三郎に告げる。土間で靴を履く平賀を、一志が玄関でじっと見ていた。
「お母ちゃん死んだど、寂しいなんなあ。」
平賀が一志の頭に手を添えてそっと嘆いた。その顔にはいつもの冷淡さがなかった。
「勝子よ、苦労ばーいさせてなんにもええことなかったのう。」
利三郎は勝子に真新しい白い足袋を履かせながら呟いた。勝子の明るく笑う光景が目に浮かぶ。涙がポツポツと勝子の足に零れ落ちた。
昭和二十五年十月十五日、残される者の悲しみを知ることもなく、慈愛に満ちた母の面影だけを残して勝子は逝った。享年三五才。
「死ななしゃああっかれ(しかたがない)、あそか(あそこの家は)ぜにゃ(銭が)ないもんよ。」
シゲノはその一報を受けた時、よろめいてヘタヘタと畳に座り込んだ。そして、鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように吐き捨てた。誰を妬むでもない、ただ、貧困にしんい瞋恚の炎を燃やしてのことだった。涙を零すまいとシゲノは空に顔を向ける。十月の秋空はどこまでも澄み切って青かった。
簡単な葬儀を早々に済ませると、それを待ちかねたように次ぎの日、保健所の者がやって来た。三人の男達は上下の白衣を着て、マスクを施している。手袋に長靴はあまりにも重装備だった。
「おまえら、なんなら。」
利三郎が三人を目の前にして、不思議そうに訊いた。
「チフスが出た家はここですね。秋水さん?」
一人の男がマスク越しに淡々と言った。
「はあ、そうじゃ。そやけんど、なにするんな。」
利三郎は訝(いぶか)しさを、より強調した口調になっていた。
「伝染病予防法の規定によって、消毒・くん蒸を実施します。本日、午後零時より開始、明日午後零時までの二十四時間それを行いますので、その間はご家族の皆さんは家を空けてもらうことになります。この書類に判を頂ければ、今からその準備にかからせてもらいますが…。」
午前十時のことだった。男は方言も使わず、さも事務的に語った。利三郎が黙って手渡された書類に目を通す。
「子供を連れてくっさかいに、ちっと間(ま)待っちょってくれっか。」
利三郎は観念したような、低い声で対処する。
しばらくして、布団を抱えた利三郎が家から出て来た。そして、四人の子供たちがそれに続いた。
良光が幾男を抱えている。唯夫は風呂敷包みを持っていた。
「やってくれっか。」
利三郎たちが呆然と立ち尽くす中、保健所の男達が感情もなく、土足で家の中に上がり込む。昨日までの生活が全て否定されるような情景に見えた。畳はあげられ、雨戸が締め切られた。男達は家の隙間という隙間を埋めて行く。あらゆるところには新聞紙を詰込んだ。戸板には粘着テープのようなもので目張りをする。それは、家の内外両方からに施されていった。まるで家自体を梱包するかのようだった。それでも消毒が始まれば、どこからともなく白い煙が立ち込めて、家全体を覆ってしまった。
利三郎は五人を連れてトボトボと歩き出した。
「すまんよう、もうり(森)の利三郎じゃ。」
利三郎は新浜の古山宅を訪ねる。そして、申し訳なさそうな声を出した。
「昨日の今日で、なんな?」
古山は勝子の葬儀でも、利三郎に口を利かなかった。その尾を引いた物の言い様だ。
「寝さしてもらわれへんだあか?」
利三郎はその事情を説明した。
「チフスの家の人間やこと、あた(そんな)恐ろしい、帰んでくれ。」
古山は利三郎の願いも、どこ吹く風とばかりに、冷たくあしらった。古山は孫の見舞いは愚か、勝子のそれさえ、一度たりとも来なかった。古山が秋水家に敏感であることは、利三郎にもわかっていた。
「わしまで泊めてくれやこと言えへん。わしゃどこでも寝るけんど、どないぞこの子らだけでも泊めたってくれっか? な、頼まよ。孫でないかれ。」
利三郎は古山に手を合わせ、慈悲に縋りついて必死に頼んだ。傷ついた子供達を、勝子の温もりが残るこの祖父の家に泊めてやりたかった。
「いらん。」
古山はあくまでも拒絶する。そして、続けた。
「駆け落ち同然で連れてい帰にくさって、勝子を苦労させたあげく挙句に、殺してしもたんでないか。」
古山の放った言葉で、利三郎の形相が一変した。
「ほうか、どないしてもあかんか。すまなんだの。」
利三郎は渋い顔を見せながらも、静かに礼を言う。古山は「おう。」と言う返事と共に、大きな音をたてて玄関戸を閉めた。
「行こか?」
利三郎は気を取り直し、子供達に声をかけた。子供達にも居場所のないことがよくわかった。
「姉(ねえ)やんよー。姉―やんよー。」
一行は行き先を失ってシゲノに頼った。利三郎の心細い声が何度も姉を呼ぶ。シゲノが現れて、利三郎はまた事情を話した。
「姉やんよ。すまんけんどのう。そういう訳じゃ、義兄やんにのう、船で寝さしてもらえるように頼んだってくれへんだあか?」
利三郎はすっかり憔悴して、言葉に力もなかった。
「うわー辛(つら)いよう。おまや、そなな布団持ってどこをうろうろして来たんな。船でやこ寝さされっかれ。子らも可哀想にのう。ちょっと、待っちょれよ。」
シゲノは涙声になって家の中に消えた。
「利―よ、うちも狭いさかいのう。浩二に納屋を用意させら。船よりなんぼかましじゃ。雨風は凌(しの)げんだれ。そこで寝えよ。」
金次郎が飛び出して来て、心配げに利三郎を見た。納屋は母屋から井戸を挟んだ隣にある。すぐさま浩二が整理を始め、板敷きの上に御座を被せた。浩二は汗を拭って、裸電球のスイッチを捻る。
「おっさんよー、できたどう。」
浩二が優しい笑顔で利三郎に呼びかけた。
「浩二、すまんのう。」
利三郎が甥に頭を下げる。唯夫たちが先に納屋へ入り込んで歓喜の声を上げていた。
「どない言よんねん。(そんなことを言う)かまなえ。(遠慮するな)」
浩二が水臭いとばかりに言った。
夕食にはシゲノがおにぎりを結んで持って来た。子供達が貪(むさぼ)り付く。利三郎もそれに一つ手を伸ばして頬張った。利三郎は子供達を見ながら、勝子との生活に思いを馳せる。悠久の時が頭を過った。納屋に所狭しと並べられた漁具からは、潮の香りが漂って彼らに安らぎを与える。子供達は腹を満たし、一人、また一人と深い眠りについていった。長かった一日が終わりを告げた。
利三郎の憂いを新たにし、惨めさを露呈することはさらに続いた。それは利三郎と勝子にとって、死の苦しみにも勝るものとなる。
「子供らだけは、絶対にやれへんのじゃ!」
今後のことを話し合うために、二人の姉を筆頭に、妹やその縁者たちが秋水家を訪れている。総意に対し、利三郎は目を三角にして気色ばんだ。
「やらんと、おまやどないして沖へ行くんな! 幾男を背たろうて網引くんけ。そななことできへんだろよ。よう考えてみい。」
利三郎は勝子の死後二ヶ月、仕事を休みがちになっていた。シゲノは気を揉んで、利三郎を説き伏せようとする。
「おう、どないでもして育てて見せたろど。いらんことぬかすな。」
利三郎が疎ましい声を出してくいさがる。
「できっかよ。幾男と俊克は、やらんとしゃあない。」
シマノが神妙な顔でポツリと呟いた。
「やかましいわえ。」
利三郎は憤懣やるかたないといった表情でシマノを睨みつける。
「利―よ、落ちつけや。」
寡黙にも事の流れを見守っていた金次郎が、利三郎に厳しい視線を向けた。
「俊克は正子さんとこがもうてくれる言いよんだれ。」
シゲノが長女の威厳か利三郎の憤りも無視して話しを進める。
「わたしゃ、乳やこ(など)、ようやれへんよってに(やることがげきないから)俊克だったら連れて帰(い)ぬ。」
勝子の妹である正子が、シゲノに相槌を打つように付け加えた。
「義兄やんよ、わしの親戚にのう、ええとこの人がおんのじゃ、子がおらんけん、乳飲み子やったらもうたろ言うてくれよんねん。大事にしてくれらよ。」
ツヤ子の連れ合いが穏やかな口調で言った。実妹のツヤ子も心痛の面持ちを隠さずに続ける。
「兄やん、ここにおるより、俊克も幾男も幸せになれっさかい。そない思わんかよ。」
「やかましい言よんのじゃ、かってなことばーい言いくさって、おまえら早よい帰にくされ!」
利三郎は誰かが一言いうたびに反駁して熱(いき)り立った。
二階に上げられた兄弟五人は、利三郎の怒鳴り声に話しを察していた。上の三人が階段の側で重なる様に寝そべって様子を窺がっている。
「一志まではセーフみたい…。」
唯夫が思わず口にすると、良光はその頭にゲンコツを食らわして、そそくさと立ち上がった。唯夫は顔を歪めて頭をさする。
「あほ。」
良光は俊克と幾男が遊ぶその前に腰を下ろし壁にもたれる。そして、またいつものように冷めた目でどこかを向いて押し黙った。
一階に集まった者たちは、流浪する利三郎を執拗に弁破した。
「おまえら、わしからなにもかも取り上げて行くんか?」
息巻いていた利三郎が、空ろな顔になって嘆いた。
「利―よ、おまえの気持ちもわかる。それにのう、勝っちゃんの気持ちもわかる。そやけんど、冷静に子供らの行く末も案じたらなあかんど。もう勝っちゃんはおらんねんど。」
金次郎が穏やかに諭した。
「………。」
利三郎は視線を返す事もせず、ただ押し黙って考えを巡らせている。
「しゃあないんじゃ。」
シゲノが悲哀に満ちた表情を浮かべる。皆衆の沈黙は車座を囲んで続いた。
「俊克―。」
正子に呼ばれて俊克がとことこと歩き出した。一志が抱き着いて必死にそれを止める。正子が痺れを切らせて何度も彼の名を呼んだ。身動きの取れない俊克が泣き出すと、一志もそれにつられて涙を零した。
「良光、幾男を連れておいで。」
シゲノの声が大きく下から聞こえた。良光と唯夫が現実を悟って一瞬顔を見合わせた。良光はその視線を逸らせて立ち上がり、笑みを浮かべる幾男を優しく抱き上げた。
唯夫は起き上がって、良光に駆け寄る。そしてその袖を掴んで離さなかった。声を出さないように必死で歯を食いしばっているものの、大粒の涙が溢れ出して頬を伝っている。良光が唯夫の顔をじっと見つめた。しかし、やがてきつく目を閉じると、無言で袖を振り払った。
俊克と幾男は未練を残さない方が良いと、その日のうちに連れられて行った。
勝子が真に願った夢はつい潰える。利三郎と五人の息子たちが揃って漁師をすることは、この時を以って永遠に閉ざされた。
俊克は勝子の妹夫婦にもらわれて、図らずも近所に住んだ。その結果、実父や兄弟との付き合いは継続を見る。しかし、幾男に至っては、一切の縁ゆかりを断交する養子縁組として、以後を過ごすことになった。幾男が実父との再会を果たしたのは、四十年後、利三郎における葬礼の折りである。
利三郎は残された三人に最後まで何も語らなかった。家庭の温もりが消えたことも、揚々しさが無くなっていたことも承知していた。しかし、利三郎は極めて普通に振舞った。それは男四人での生活が、恰(あたか)も初めからのものであったかのように。
時 代 背 景 と あ と が き
一九三八年(昭和一三年)健兵健民を目的とする旧国民健康保険法が制定。農山漁村、中小企業を含め、一般国民も対象になり、被保険者・給付が拡大された。しかし、生活するのが精一杯で、医療保険に加入すらできない国民が大勢いた。
このころの彼らは労働環境や健康状態も悪く、医療は必要不可欠であったにもかかわらず、高額の医療費が払えないために病院にも行けない。行かないから治らない。悪循環そのものだった。特に結核やその他チフスなどの伝染病に侵されると、治療費にあてるため家の財産を全て売り尽くし破産するか、黙って病人を見殺しにするしか選択の余地がなく、この悲惨な実態は終戦後もまだ続いていたのである。まさしく勝子たちもそんな狭間で生きていた。
一九四五年敗戦、連合軍総司令部(GHQ)は健康保険制度の再建を指示。
一九四六年、新憲法公布、第二五条「国は社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上・増進に努める」が厚生省の基本方針になった。
一九四八年、アメリカが「社会保障制度への勧告」を政府へ手交。
一九五〇年、(昭和二五年)内閣・社会保障制度審議会が、政府に全国民に医療保険を適用すべきことを勧告。
一九五〇年、保険医療と自由診療が混在していたため薬価基準制度を発足させ是正する。
一九六一年、医療負担の軽減を主たる目的として医療保険制度が実施された。国民の皆が何らかの公的医療保険に加入することになって、貧しい者も富める者も病人が病人として扱われ、安心して治療を受けられるようになった。
紆余曲折を繰り返しながらも、勝子の死後十一年をして国民の重要な生活基盤の一つにあたる制度が創設されたのである。GHQの通告からは十六年を経過している。あまりにも遅すぎた。
しかしながら、こと伝染病に関しては特別の法律があって、貧困に喘ぐものたちにも救済の手を差し伸べていたのだが、情報も薄い田舎暮らしの彼らはそんな事も知らなかった。
旧伝染病予防法は、百年以上前の明治時代に制定されたもので、隔離を主体に考えられており、現在の医療に適応しているとは言い難い傾向であるため、一九九九年四月から感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律(通称感染症新法)が施行されているが、その旧法においても指摘する隔離に関する支弁について抜粋した第二十一条には次のように規定されていた。四、五項に注目する。
伝染病予防法 第二十一条
左ノ諸費ハ市町村ニ於テ之ヲ支弁ス
一 予防委員ニ関スル諸費
二 市町村ニ於テ施行スル清潔方法及消毒方法ニ要スル諸費
三 予防救治ノ為雇入タル医師其ノ他ノ人員並予防上必要ナル器具、薬品其ノ他ノ物件ニ関スル諸費
四 伝染病院、隔離病舎、隔離所及消毒所ニ関スル諸費
五 予防救治ニ従事シタル者ニ給スヘキ手当、療治料及其ノ遺族ニ給スヘキ救助料、弔祭料
六 第八条ニ依レル交通遮断、隔離ニ関スル諸費及交通遮断、隔離ノ為又ハ一時営業ヲ失ヒ自活シ能ハサル者ノ生活費
七 市町村内ニ於テ発見セル伝染病貧民患者並死者ニ関スル諸費
八 市町村ニ於テ施行スル鼠族、昆虫等ノ駆除及其ノ施設ニ関スル諸費
九 第十七条ノ二ニ依レル家用水ノ供給ニ関スル諸費
十 第十九条ノ二ニ依リ交付スヘキ手当金
其ノ他市町村ニ於テ施行スル予防事務ニ関スル諸費
無知だったと片付けてしまうにはあまりにも悲しい。近隣には隔離所が無かったことは確かであるし、明石、神戸の復興も未だ不完全な状態であったことは疑うに硬くない。その点で終戦後のどさくさに法律が機能しなかったと思えば幾分か諦めもつくが、残された者の憂愁は想像を絶する。どんな時も戦争の爪痕は深く醜い。
結核の特効薬となり、本文にも登場したストレプトマイシンは、一九四四年アメリカの土壌微生物学者セルマン・A・ワクスマンによって土の中にある放線菌から、結核菌に対して極めて有効な物質が発見され開発をみる。
わが国においては一九四六年から一九五一年まで、連合軍の軍政下で製薬会社は閉鎖を余儀なくされ時間を無駄に費やしたが、その後、米国から製造技術を導入して量産され始め安価となる。そして、一九五〇年を境にストレプトマイシン、クロラムフェニコールなどの抗生物質は、一九三六年から使用されていた化学療法剤のサルファ剤に代わって伝染病に対抗し劇的な効果を発揮して行った。「あの時にストマイが手に入っていたら助かったのに・・・。」とよく悔やみ話が聞こえたのはこの頃である。
これら特効薬、いわゆる抗生物質に関しても前述したとおり、勝子たちには不幸であった。日本国内において一般に広がり、飛躍的に活躍し始めるのは勝子が死んだ翌年からということになる。
昭和三十年代中頃に入ると、この漁村でも冬には海苔の養殖が行われるようになって、漁師たちの暮らしは一変する。勿論、海苔養殖は家族・親類総出の大仕事でそれなりの苦労もあったが、不漁の時期にも安定した高収入を得ることができるようになった。また、魚網巻上げの大型電動ローラー、馬力の大きいエンジン、高精度の魚探等、本来の底引き漁業に関しても目覚しい発展があって漁獲量も増えていった。漁師と言えば「貧乏」という代名詞を与えられた時代は終わりを告げる。貧困にあえいだ漁民たちにも光が見え、そんな時代もあったかと言うほどに裕福な暮らしを得る者も多数になる。
しかしながら、当家ではそれらの恩恵を全くと言って良いほど受けてはいない。勝子の死後、利三郎の気力が失せてしまったのか、再び自分の船を持とうとはせず、頑なまでに雇われ漁師を続けた。息子たちも、後に漁師が繁栄するとは夢にも思わず、船もない漁師に見切りをつけ、誰一人として後継ぎすることなく次々と島を出て行った。利三郎が資金も人手もかかるのり養殖などに、手を付けることなどできるはずもなかった。「この子らを引き伸ばしてでも早く大きくしたい。お父さんと沖に行かせたい。」と切に願った勝子の思いは適わなかった。勝子さえ生きていればと思わずにはいられなかったことも多かったと聞く。しかし、それも叶わぬ理不尽な話である。
時局の渦中においてその運命に翻弄された者は、死すべくして死んで逝ったのかも知れない。歴史に仮想と疑念は禁物であるが、悔やまれることはいつの時代も多くある。勝子の死は哀れと言えば哀れだが、尊いと言えば尊い。利三郎と勝子の孫である私が今ここに存在する上においては、勝子の死は決して無駄ではなく、偉大なものであったと信じて止まない。また、我が身を削ってまでも命を繋いでくれた祖母にありがとうと言いたい。
この物語は事実に基づきそれをフィクション化した物である。
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