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年代ごとには並んでいません。
われら海族 HOME
故郷のお祭りです。 毎年5月5日に行われています。 布団太鼓をみんなでかつぎ上げています。 とても勇壮で見ごたえがありますよ。 宮入は欄幕に「森」と刺繍された布団太鼓を、 見逃さないで下さい。若く粋な漁師たちが練り 歩きますので、一番激しいです。 (場所;兵庫県津名郡東浦町 伊勢久留麻神社) |
私の姪っ子 妹の子供たち。 左が葵(あおい)、2003年4月から小学生です。 右は楓(かえで)、12月で4歳になりました。 よろしくお願いします。 |
伊豆大島にて(昔々) 商船学校の同級生と共に写しました。商 船学校の夏服は、白の詰襟です。 |
大阪港、天保山岸壁にて
大阪港では毎年、海の記念日にカッター大会が開かれています。 |
グアムにて(会社の仲間と)
凄く綺麗な人がビーチに一人。静かに読書されてました。 綺麗はずです。女性は某航空会社のCAさん。 頼み込んで、一緒に写真をとって頂きました。ありがとうございました。 |
プーケットでバンジ―
いっぺん飛んだろかと思って、やってみました。 「大懲りました。もうしやしまへん」 |
ヨットは晴れると楽しいです。(明石〜白浜まで、先輩と共に) | |
戦争は絶対ダメ | |
広島 原爆ドーム
米軍は昭和20年8月6日8時15分ウラン235を使用した原爆を投下しました。43秒後上空580mで爆弾の炸裂が起こり、爆発点の温度は1万℃に達しました。百万分の数秒後には周囲の空気が白熱状態となって直径280m、高温・高圧(数十万気圧)の火球が発生し、約3秒間強烈な熱線を放射しました。 爆心地の温度は2000℃以上、爆風は440m/s。爆心地の半径500m以内にいた人の9割が即死しました。 |
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パール判事(元極東裁判の判事。)は、広島原爆記念碑前で碑文「このあやまちを繰り返しません」に対し、「誤ったのは日本ではない」と説きました。 | |
長崎 平和記念像
右手は原爆の脅威、左手は平和、閉ざされた目は犠牲者の冥福を祈っています。 米軍は広島に続き、8月9日長崎にプルトニウム239型原子爆弾を投下しました。 1945年末までの長崎原爆による死者は7万人。ほとんどの人が非戦闘員でした。 |
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鹿屋 海軍特攻隊慰霊碑
日本軍は大戦末期において、職業軍人のみならず、海軍では予科練習生・飛行予備学生、陸軍では少年飛行兵・特別操縦見習士官など即時性の強い搭乗員育成を行い多くの若い命を(17〜25歳ぐらいが主力)特攻に散華させました。 鹿屋は、その海軍航空隊の特攻基地があったところです。慰霊碑近くには海上自衛隊基地鹿屋航空隊資料館があって、それらに関する資料や零戦の実機を展示しています。 言葉が出ません。 |
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知覧 特攻平和会館
知覧は、陸軍航空隊の特攻基地があったところです。それらに関する資料や疾風、飛燕の実機を展示しています。 遺影や遺書を拝見するに、戦争の悲惨さを目の当たりにして、特攻隊員の方々やそのご遺族の心情は察するにあまりあります。 |
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知覧 とこしえに像
「御霊のとこしえに安らかならんことを祈りつつ、りりしい姿を永久に伝えたい心をこめて。ああ。南海の果ての消えた勇士よ」と説明されています。 ここには写っていませんが、この像の正面には、なんとも悲しげにこれを見つめる母の像が立っています。 |
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知覧 鳥浜トメさんの献灯
知覧へ行きますと、街から平和観音堂に向けて異様なほどたくさんの灯篭が並んでいます。これは特攻で散華された方々のご遺族が献灯したものです。 トメさんが特攻隊員の死を痛み、献灯したことから始まったものですが、その後もトメさんは全国の遺族に呼びかけ、努力されたと聞きました。 「散るために 咲いてくれたか さくら花 散るほどものの見事なりけり」 鳥浜トメ |
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知覧 富屋食堂
トメさんは知覧基地から特攻に出撃する若者をここで献身的に支えました。映画「ホタル」の舞台となったところです。 現在は旅館になっています。 私も一泊させて頂きました。 |
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パール判事はこうも言っています。 「勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというのなら、もはやそこに正義も法律も真理もない。力による優劣だけが全てを決定する社会に、信頼も平和もあろうはずがない。」 |